No.241 クリプトスポリジウムによる集団下痢症

[ 詳細報告 ]
分野名:原虫・寄生虫・衛生動物
登録日:2016/03/17
最終更新日:2016/05/26
衛研名:埼玉県衛生研究所
発生地域:埼玉県入間郡越生町
事例発生日:1996年5月
事例終息日:1996年7月
発生規模:推定患者数:8,812人(町の人口は約13,800人,このうち健康調査の回答者は12,345人),
患者被害報告数:
死亡者数:
原因物質:クリプトスポリジウム(Cryptosporidium parvum)
キーワード:原虫,クリプトスポリジウム,集団発生,下痢症,蛍光抗体法,水道水,浄水場

背景:
水道水によるクリプトスポリジウムの集団感染は1983年頃から英国や米国で報告されるようになった。1993年に米国ウイスコンシン州ミルウオ-キ-市で起こった事例は過去最大のもので,人口160万人に給水する市営水道がクリプトスポリジウムで汚染され,2週間で40万3千人が発症し,4千人が入院し,1995年末までに約400人が死亡したといわれている。
わが国における集団感染は,1994年の神奈川県平塚市で,雑居ビルの居住者や利用者の事例があり,わが国で初めての集団発生の報告である。この感染源は地下室にある水道受水槽に,ビル内の汚水槽や排水槽の汚水が排水ポンプの故障で混入したもので,蛇口水や受水槽の水からクリプトスポリジウムが検出された。このビルで飲食した736人のうち461人が発症したものである。しかし,公共水道そのものが汚染されたわけではなく,水道関係者にはあまり注目されなかった。
1996年に越生町の水道水による事件が起こった時点では,わが国でもクリプトスポリジウムによる水道水を介しての集団発生が起こりうるということが水道関係者に周知徹底されていたわけではなく,国や地方自治体の水道関係者に大きな衝撃を与えた。

概要:
平成8年6月10日,埼玉県越生町の3小・中学校で約1割の生徒が腹痛・下痢等により欠席したことから,町と坂戸保健所による調査が開始された。
6月11日から,患者及び調理従事者の便,給食の保存食,水道水等について細菌,ウイルスの両面から検査を開始したが,原因と考えられる病原微生物は検出されなかった。しかし,坂戸保健所の調査では患者の発生は小・中学校だけでなく,町全体にわたることから,町全体に共通に関係する水道水を疑う必要があること,しかも,残留塩素の存在下でも生存可能なものとして原虫類を疑い,14日から検査を開始し,Cryptosporidium paruvumを検出した。水関係では,町の浄水場で処理した浄水,その原水の河川水及びその河川上流に設置されている2ケ所の下水処理施設の排水からクリプトスポリジウムを検出し,一部供給されていた県水からは検出されなかった。
町水道は,町の浄水場で処理した町水と県営水道からの供給による県水で,その割合は75:25であった。上記のように町の浄水場で処理した浄水に原虫の混入があり,これを飲用した住民が感染発症したことが明らかとなった。
町の住民の感染状況を知るために,全住民に対して健康調査票を6月30日に配布し,協力を求めたところ,約9割の12,345人から回答が得られ,下痢,腹痛等の症状があったと回答した者は8,812人(71.4%)であった。発症日は5月1日から7月7日まで分布し,経時的にみると,5月30日頃から増加し,6月10日に826人,6月20日の774人とこの2日を頂点とする2峰性が観察された。その後,減少し,7月7日を最後に新たな患者はみられなくなった。
糞便からの原虫検査は,6月12日~7月30日までに受け付けた609検体について実施した。これらの検体は町の小・中学校の有症者,医療機関の受診者,町の施設を利用し感染した者,町の旅館等の業態者などから集められたもので,この結果は,小・中学校の生徒35名中32名(91.4%),医療機関受診者75名中45名(60.0%),さらに町内施設利用者39名中21名(53.8%)等であった。

原因究明:
患者便からのクリプトスポリジウムの検査は抗酸染色法やしょ糖遠心浮遊法により十分に検査可能であったが,水環境からの検査法は,先に述べたように,水道法の水質検査項目に含まれず,確立された方法がないため,技術指導を受け検査を開始した。
この方法は米国の標準法を改良したもので,10~20lの水をフィルタ-で濾過し,これを溶解して試料を作製し,米国製のキットにより間接蛍光抗体法を行い,鏡検する方法である。とくに河川水や排水等の懸濁物質の多い場合は,分離が難しく,今後の検討課題として残されている。

診断:

地研の対応:
当初,町では,小・中学校の生徒が下痢・腹痛等の症状で多数欠席していることから,集団風邪(感染性胃腸炎)ではないかと疑っていた。町から坂戸保健所への一報により,保健所は念のため集団食中毒の可能性も考慮し,患者,給食の調査,水道水の残留塩素の確認等を行った。その結果,学校給食は3校とも自校方式で共通する食材がないこと,大人を含めて,幅広い年齢層で発症していること,水道水の残留塩素は正常範囲であることなどから,この時点では,水や学校給食による感染は考えれず,感染性胃腸炎等を考慮し,咽頭スワブ等を含めて,細菌,ウイルスの両面から検査を行うことにした。所内では食品微生物科,細菌科,ウイルス科が対応した。
さらに原因が原虫ではないかと考えられてからは,生物環境科が対応した。一方,水道水等の環境水からのクリプトスポリジウムの検査は確立された検査法が無く,大阪市立大学の井関基弘先生,神奈川県水道局水質センタ-の坂本照正先生に技術指導を受け,米国製キットによる蛍光抗体法を用いて検査を行った。しかし,この検査法は人手と時間がかかることから担当科のみの対応は不可能で,所内にプロジェクトチ-ムを作り,全所員体制で対処した。

行政の対応:
前述のとおり,当初,集団風邪かということで,県保健予防課が中心になり原因究明を行っていたが,患者便からクリプトスポリジウムが検出され,感染は町の水道水を介しての疑いが濃いことがわかってから,県衛生部では部内対策会議を設置し,県生活衛生課の水道係が中心となり,浄水場に対する行政指導を厚生省の水道係と連携をとり実施することになった。県では,町に対して,町の浄水場からの給水停止と県水への100%切り替えを指導し,浄水場の洗浄,配管系統からの排水による除去,県水への切り替え以後さらに給水栓10ケ所からのクリプトスポリジウムの検査を行い,3回連続して検出されなくなるまで継続し,7月19日に水道水の安全宣言を出した。
また,町の水源がクリプトスポリジウムに汚染されていることが確認されてから,河川下流域や周辺地域の水道への汚染拡大が懸念され,近隣の小・中学校の欠席状況の調査を行ったが,他地域では異常はみられなかった。さらに越辺川下流域で水源を有する水道事業体に浄水処理の濁度管理の徹底等を図るよう通知した。

地研間の連携:
越生町関連の検査で余裕のなかった6月~7月は,水道事業体からの要望もあり,越辺川以外の河川水の16検体,水道原水としている井戸水の22検体,越生町以外の水道水の5検体,合計43検体について東京都立衛生研究所の協力を得て検査を実施した。
平成8年11月,京都市で開催された全国衛生化学技術協議会理化学部会で,今回の事件の状況報告を行った。
その後,16地研から検査法についての研修依頼があり,23名の方に当所で行っている検査法を実習形式で行い,知見を得てもらうとともに,全国的な検査体制確立のために寄与してもらった。

国及び国研等との連携:
平成8年8月に「クリプトスポリジウム緊急対策検討会」が厚生省内に設置され,当所からも参加し,「水道水におけるクリプトスポリジウム暫定対策指針」策定に協力すると共に,情報交換を行い,平成8年10月4日付けで指針が通達された。

事例の教訓・反省:
1)新興感染症に関する情報
本事例について,保健所から衛生研究所にもたらされた情報の最初は,下痢を伴う風邪様疾患とのことであり,また自校方式の給食などを考慮し,学校給食による集団発生ではないと漠然と考えられた。患者便,食材などから細菌性及びウイルス性下痢症並びに風邪様疾患の病原体検査が精力的にすすめられたが,既知病原体を検出することはできなかった。検査関係者で情報交換を行ううちに,原虫による下痢症を疑ってみる必要があるとの意見が出され,クリプトスポリジウムなどの原虫の検査を患者便について実施し,クリプトスポリジウムを同定するに至った。
幸い新興感染症であるクリプトスポリジウムの情報を持ち合わせていた職員の存在した事が本事件の原因究明へとつながった。
これらのことから,常時,種々の感染症に関する情報の収集が重要であることを再認識された。
2) 所内協力体制の確立
環境水からのクリプトスポリジウムの検査は,前述のように,人手と時間を要することから,迅速に結果を出すために,所長を委員長とし,各部長を構成員とする対策委員会と採水,検査などを担当する7班からなる作業委員会を組織し,全所をあげて対応し,成果を挙げることができた。しかし,対策委員会はもう少し早い時期に組織し,疫学情報や検査結果を総合的に判断できる体制をとるべきであった。

現在の状況:
平成8年6月の越生町での集団発生を契機として,厚生省では,水道分野において同年10月,緊急に暫定対策指針を定め,全国の水道事業者に対して予防対策を指示した。全国94水源水域282地点の水道水源における原虫調査を実施し,これらの調査結果を基に,平成9年8月より「水道におけるクリプトスポリジウム等病原微生物対策検討会」において暫定対策指針の見直しを行うなど,対策の強化が図られている。
埼玉県では,平成9年に水道原水である河川水(17ケ所)のクリプトスポリジウム及びジアルジアの実態調査を実施した。さらに河川水などの原水中のクリプトスポリジウムの検出法の検討を行った。また,越生町住民(199名)を対象に,集団発生1年後の抗体価測定と健康調査を行い,抗体価の下降と再発のないことを確認した。
越生町では,浄水場に0.1度対応の濁度計の設置や運転管理マニュアルの作成等を行うとともに,平成10年5月に特殊膜で処理する膜濾過施設を完成させ,既設の急速濾過施設で浄水し,さらに膜濾過施設にかけるという二重の安全対策を行った。

今後の課題:
1)初動調査に関する衛生研究所と保健所の連携の強化
本事件では,保健所が越生町から微熱,腹痛,下痢を主症状とする患者が小・中学校で多数発生しているとの報告を受け,保健所の判断で検便,疫学調査の実施を助言し,教育委員会に個別調査票を渡すなどをした。この時点では,衛生研究所に連絡はなく,翌日保健所から状況についての簡単な連絡と食品,水道水などの検体が衛生研究所に搬入され,細菌等の検査を開始したが,患者発生状況の情報は学校中心であり,一般住民についてはほとんどなかった。
初動調査における患者発生状況や検体採取などについては,原因究明を効率よく迅速に行うために非常に重要であり,今後さらに衛生研究所と保健所との連携を強化する必要がある。
3) 本庁における窓口担当部署の一貫性
今回のような未曾有な大規模集団発生の場合は,本庁における窓口担当部署の一貫性を保つためにも,対策本部等を設置し,役割分担を明確にする必要がある。
4) 水道水からのクリプトスポリジウム検出法の改良
現在の蛍光抗体法を用いた検査法は,特異性,簡便性,迅速性に欠けるのでこれらを満たす検査法を早急に開発する必要がある。

問題点:

関連資料:
1) 「クリプトスポリジウムによる集団下痢症-越生町集団下痢症発生事件-」:埼玉県衛生部(1997)
2) 「水道水におけるクリプトスポリジウムの集団感染例-国内および海外の事例-」:山本徳栄ほか:化学療法の領域:14, (2), 41-49(1998)