化学剤データベース

Ⅰ.神経剤
Ⅰ.1.サリン(GB)
概要

サリンは、1902年ドイツで神経剤の毒ガスとして開発された有機リン化合物である。アセチルコリンエステラーゼ(以下AChE)の作用を阻害して,神経終末での神経伝達物質であるアセチルコリンの分解を阻害するため,アセチルコリンの過剰刺激様症状(ムスカリン様作用、ニコチン様作用、中枢神経症状)が現れる.特異的な解毒薬として硫酸アトロピンや、パム(以下、PAM)などのオキシム剤が知られる。「サリン」の名称は、ナチスでサリン開発に携わったシュラーダー (Gerhard Schrader)、アンブローズ(Otto Ambros)、リッター(Gerhard Ritter)、フォン・デア・リンデ (Hans-Jürgen von der Linde) の名前から取られた。第一次世界大戦中マスタードガスで負傷したヒトラーは毒ガス使用には消極的で、ドイツ軍はサリンを実戦に使用しなかった。また、同盟国の日本に対してもサリンの製造技術は提供されなかった。1988年、イラン・イラク戦争時、ハラブジャ事件が発生、イラク軍がイラン軍および自国のクルド人に対し毒ガス攻撃を実施、サリンも使用したとされる。1993年にはオウム真理教が合成に成功。サリンを用いて、池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件を起こした。シリア内戦では、2013年にシリアの首都ダマスカス近郊にあるグータに、サリンを搭載したロケットが打ち込まれ死傷者が出た(グータ化学攻撃)。2017年4月にはアサド政権が反政府勢力に対しサリンを使用したとされる(カーン・シェイクン化学兵器攻撃)。国際的には、ジュネーヴ議定書(正式名称;窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)が1925年にジュネーヴで作成され(1928年発効)、サリンの戦争における使用が禁止され、日本も1970年に批准した。日本国内ではオウム真理教による両サリン事件を受けて、サリン等による人身被害の防止に関する法律(平成7年4月21日法律第78号)が施行され、所持や生産などが禁止されている。その後、国際的に化学兵器禁止条約(Chemical Weapons Convention、CWC)が、1993年に署名され(1997年発効)、戦時の使用のみならず、化学兵器の開発、生産、貯蔵も禁止されることとなった。
特性として、強いAChE阻害作用を有する。無色、無臭の液体で神経剤の中では最も気化しやすい。非常に作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。酸または酸性溶液と接触すると、フッ化水素を遊離する。また、加熱すると刺激性のフューム(フッ化物、リンの酸化物)を遊離し、肺水腫を引き起こす。下記の症状の右へ行くほど重症である。縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

Ⅰ.1.1.物性

純粋なものは、常温では無色無臭の液体で、揮発しやすい。
[構造式]
[分子量]140.09
[比重] 1.0887g/mL(25℃)
[沸点] 147℃
[凝固点]-57℃
[蒸気圧]0.38657 kPa(≒2.9 mmHg)(25℃)
[相対蒸気密度]4.86(空気=1)
[揮発度]22,000mg/m3(25℃)
[引火点]可燃性でない。
[溶解性]水1Lに1×106mgが溶解する(25℃)

(参考)神経剤は一般に水溶性は中程度で、脂溶性が高い。

[反応性]

水中で加水分解を受けるが、その速度はpHと温度に影響される。
酸または酸性溶液に接触すると、フッ化水素を遊離する。
加熱すると分解し、フッ化物やリンの酸化物である刺激性のフュームを遊離する。

[環境汚染の持続時間]

サリンは直ちに蒸発するので、環境では非持続性である。
地面汚染によって予想される有害作用の持続時間は以下の通りである。
気温10℃、雨の降っている中程度の風のある日 ;1/4~1時間
気温15℃、晴れで、微風のある日       ;1/4~4時間
気温-10℃、晴れで、風がなく、雪が降っている日;1~2日
Ⅰ.1.2.毒性・中毒作用機序・体内動態
毒性

強いAChE阻害作用を有する。無色、無臭の液体で神経剤の中では最も気化しやすい。非常に作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。酸または酸性溶液と接触すると、フッ化水素を遊離する。また、加熱すると刺激性のフューム(フッ化物、リンの酸化物)を遊離し、肺水腫を引き起こす。

[ヒト中毒量]

吸入ヒト最小中毒量:(ガス)1×10-4mg・分/m3
半数不能量:75mg・分/m3 (非運動時)
経口ヒト最小中毒量:2μg/kg

[ヒト致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):100mg・分/m3
経皮ヒト最小致死量:0.01mg/kg
皮膚へ少量滴下しただけで死亡する。

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

神経剤GB(サリン) 107-44-8
ppm [mg/m3]
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL1 0.0012 0.00068 0.00048 0.00024 0.00017
(不快レベル) [0.0069] [0.0040] [0.0028] [0.0014] [0.0010]
AEGL2 0.015 0.0085 0.0060 0.0029 0.0022
(障害レベル) [0.087] [0.050] [0.035] [0.017] [0.013]
AEGL3 0.064 0.032 0.022 0.012 0.0087
(致死レベル) [0.38] [0.19] [0.13] [0.070] [0.051]

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

中毒作用機序

AChEと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、中毒症状を引き起こす。
AChE阻害作用:

AChEの活性部位に結合し、酵素を阻害する。
サリン、タブンソマンに比べてAChE阻害作用は弱い(マウス)。
エイジング半減期:サリン;約5時間
ソマン;約2分
タブン;40時間以上
VX;40時間以上
サリンは酸または酸性溶液と接触するとフッ化水素を発生し、フッ化水素中毒を引き起こす可能性がある。
体内動態

[吸収]

吸入、皮膚、結膜、消化管から吸収される。

[分布]

マウスに80μg注入後、脳、肝臓、腎臓、血漿中にサリンが検出される。

[排泄]

マウスの実験では、大部分が腎臓から排泄される。15分後の脳、肝臓、血漿、腎臓におけるサリンの濃度は、初期の濃度の85%程度に減少。
Ⅰ.1.3.症状

概要

・極めて作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。
・皮膚曝露の場合、症状発現が10時間以上遅れることがある。
・ときに眼の曝露によっても全身症状を呈する。
・有機リン剤中毒と同様の症状を示し、縮瞳はほぼ必発。
・縮瞳、視覚障害(眼前暗黒感、視野のぼやけ)、倦怠、脱力、悪心、腹痛、下痢、筋攣縮、発汗、鼻汁過多、流涙、流涎、気道内分泌物過多、気管支攣縮、呼吸困難、意識消失、痙攣、弛緩性麻痺、尿失禁、無呼吸。
・吸入曝露時:低濃度の吸入曝露で、数分の間に、縮瞳、視覚障害、鼻汁過多、呼吸困難を来す。
・高濃度の蒸気では1~2分で意識を消失し、その後、痙攣、弛緩性麻痺、無呼吸を来す。縮瞳、流涙、流涎、鼻汁過多。気道内分泌物過多もあり、発汗、筋線維束性攣縮、尿失禁などがおこる。
・皮膚曝露時:少量の場合、症状発現までに通常数時間以上を要する。曝露部位のみ、筋線維束性攣縮、発汗を認めることがある。多量では嘔気、嘔吐、下痢などの消化器症状、全身発汗、倦怠感がみられる。極めて大量または致死量に近い量では、10~30分の無症状期のあとに突然、意識消失、痙攣、弛緩性麻痺、無呼吸を起こす。
・サリンにより報告されている症状。
下記症状の右へ行くほど重症。
縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止
・一般的に眼症状のみのものは軽症、呼吸障害や痙攣、呼吸停止を来たしたものは重症とされる。それ以外は、中等症である。

診断

・消防や警察の検知と臨床症状に矛盾がないことの確認が必要である。身体に付着した残存薬剤の分析、鼻汁や血液中のメチルホスホン酸モノイソプロピルの検出は診断につながるが、通常は神経剤中毒に特異的な診断法はない。
・現実的には縮瞳、分泌亢進、筋肉の痙攣・虚脱等の臨床症状と血中コリンエステラーゼ値の低下が有機リン系化合物中毒を推定する根拠となる。
詳細症状
(1)神経症状
①ムスカリン様症状:縮瞳、気管分泌物過多、鼻汁、流涙、尿失禁、腹痛、嘔吐、徐脈、気管支痙攣、流涎、発汗、下痢、血圧低下
②ニコチン様症状:筋肉の痙攣・硬直、循環虚脱、頻脈、血圧上昇、攣縮、呼吸麻痺
③中枢神経症状:不安、興奮、不眠、悪夢等、中枢神経系抑制、混乱、せん妄、頭痛、昏睡、痙攣
(2)呼吸器系症状
咳、くしゃみ、呼吸困難、胸部圧迫感、喘鳴、頻呼吸、気道内分泌物過多、肺水腫、重症例は呼吸障害、呼吸停止
(3)循環器系症状
心電図異常:56人中42.9%に比較的軽微な心電図異常がみられた。
(内訳)不整脈40.7%(洞頻脈、洞徐脈、1度房室ブロック、完全右脚ブロック、左軸偏位、右軸偏位)
心筋障害40.7%(左室肥大、右室肥大疑い、非特異的T波変化、左房負荷)その他18.5%(QT間隔短縮、時計方向回転、肢誘導低電位)
重症例は心停止
(4)消化器系症状
嘔気、嘔吐、下痢、便失禁
(5)泌尿器系症状
頻尿、尿失禁
(6)その他
・眼 :縮瞳、眼痛、複視、眼前暗黒感、流涙
−自覚症状;目の前が暗い、見えにくい、視野が狭い、近くを見ると目が痛い、眼痛、見ようとしても集中力がない、異物感
−他覚症状;縮瞳、視力低下、充血(毛様充血が主体、結膜充血)、視野狭窄、びまん性表層角膜症、ERGの変化(a波の遅延と反応の低下、b波の増強)、調節力の変化 、眼瞼痙攣
・耳鼻咽頭症状 :くしゃみ、鼻汁 、唾液過多、喉頭痛
・皮膚:発汗
・妊娠時の作用:4例の妊娠女性が視野狭窄、頭痛、嘔気、嘔吐を主訴として入院したが、アトロピン投与により2日間で退院している。曝露時妊娠36週目の女性は23日後に無事出産した。
・検査所見:血漿・赤血球ChE値の低下。全身症状(嘔吐、下痢、呼吸器症状。筋繊維束性攣縮)が出現する大量曝露があった場合、赤血球中AChE活性は通常、正常値の30%以下である。血液や尿の検体や患者に残された爆弾の破片等異物、除染廃液等は、確定診断のみならず捜査上も重要であるので、余裕がある限り、検体の確保と保存に努める。
予後
・松本サリン事件の報告書によると、重症者では痙攣波等の脳波異常、不整脈等が比較的長期間(1~2ヵ月程度)遷延したが、後遺症として残存したことは確認されていない。いわゆる遅発性末梢神経障害は、松本では他覚的には確認できなかった(神経伝導速度等の検査でも明かな異常はなかった)が、自覚的なしびれを3ヵ月程度訴えた患者が10%弱存在した。
・東京地下鉄サリン事件の入院患者110人中、重症例5例(来院時、心肺停止状態3例、意識障害・痙攣・呼吸停止2例)のうち、2例が死亡した他は一週間以内で軽快退院した。重症例、軽症例ともに症状の再燃や Intermediate syndrome 等を疑わせる所見はなかった。
・集中力がないなどの不定愁訴的訴えが多く、不穏・不安は入院中患者の12%程度 に見られたが、退院時には18%に増加していた。悪夢、不眠、フラッシュバック(出来事を再体験する)、抑うつ傾向等、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の発症と思われる症例もあった。更に頭痛、腹痛、肩や手の痛み等身体的症状が続く例は精神科外来で対応した。
・米国では湾岸戦争症候群の原因のひとつとして、低レベルの神経剤曝露が疑われているが、結論は出ていない。
・サリン曝露者の海馬の体積が有意に減っていたという報告もある。
・サリン事件被害者の会が独自に行った調査によると、精神的、身体的な影響が残っているとの予備調査の結果も出ているが、国家規模での後遺症の調査は事件発生10年後の警察庁のアンケート調査以来、行われていない。国際的にも長期影響の被害調査が求められている。
Ⅰ.1.4. 治療

概要

・軽症にはアトロピンのみ投与、中等症にはアトロピンとPAMを投与、重症にはアトロピンとPAM、ジアゼパムを投与する。
・アトロピンはムスカリン様症状のコントロールには有効である。ジアゼパムは中枢神経症状の制御に対症的に使用できる。
・PAMはサリンとVXにはよく効き、タブンソマンに対しての効果は落ちるとされる。PAMは血液脳関門を通過できないため、中枢神経症状は改善できない。
・呼吸循環機能の維持管理:
死亡原因は呼吸不全(中枢抑制、呼吸筋麻痺、気管支痙攣や分泌物による閉塞等
により起こる)であり、呼吸管理が重要である。
ミダゾラムもしくはプロポフォールを麻酔導入剤として使用する。人工呼吸が必要で、筋弛緩剤が必要な時には、神経筋遮断剤スキサメトニウム(サクシニルコリン)の使用は、コリンエステラーゼ阻害剤によってスキサメトニウムの分解が阻害され、呼吸筋麻痺を遷延させるので避ける。十分な補液を行う。
・観察期間:
吸入曝露では症状発現は早く、ほとんどの場合、医療機関到着時までに重篤化する。
縮瞳以外の症状がすべて消失するまで、入院・経過観察を行う。
縮瞳はまれに数週間持続することがある。
皮膚曝露の場合、症状発現までにときに10時間以上かかるので、少なくとも10時間は経過観察する。
詳細
*吸入の場合
全身症状が出現してないか注意深く観察する。
呼吸不全を来していないかのチェックとその対応を行う。
(1)基本的治療
A.除染:新鮮な空気下に避難させる。
医療者は二次汚染を避けるために個人防護装備を着用する。
吐物は密閉容器に入れて然るべき方法で処分する。
汚染された衣類は除去し、有害廃棄物として処理する。
曝露された皮膚、眼は、水で洗浄する。
−以前は次亜塩素酸塩100~500ppm(0.01~0.05%)液を使用した除染が推奨されていたが、濃度調整の際のミスが起きうることや皮膚が荒れる(生体の防御としての皮膚バリアの破綻を意味する)ため、最近では推奨されない。
−露出部の皮膚や毛髪はRSDL® (Reactive Skin Decontamination Lotion)でぬぐい取り除染を行う。
B.呼吸不全を来していないかチェック。
C.全身症状が出現しないか注意深く観察する。
(2)対症療法
A.酸素投与:気道確保、酸素投与、人工呼吸等を一般の救命処置に準じて行う。
B.痙攣対応:ジアゼパム等の抗痙攣薬によりコントロールする。
難治性、再発性の場合、フェノバルビタールまたはフェニトイン等の抗痙攣剤を使用する。
注意:ジアゼパム製剤のうち、効能・効果に「有機リン中毒における痙攣の抑制」がある製剤は、2018年3月現在、以下のとおり(他のジアゼパム製剤は適応外使用となる点に注意)。
・ホリゾン(R)注射液10 mg(丸石製薬)
・ジアゼパム注射液10 mg「タイヨー」(武田テバファーマ)
ジアゼパムは、痙攣を発症した例のみに使い、痙攣のない症例には使わない。
C.肺水腫の監視:24~72時間後に肺水腫が出現することがある。
動脈血ガスをモニターするなど呼吸不全の発生に留意する。
D.気管支攣縮:アトロピン投与で不十分であれば、交感神経刺激薬やテオフィリン等の気管支拡張薬を使用する。
E.不整脈治療:心電図モニター、一般的な不整脈治療を行う。
F.縮瞳のみの症例への対応:トロピカミド・塩酸フェニレフリン(ミドリン® P点眼液)、塩酸シクロペントラート(サイプレジン® 1%点眼液)を点眼。または治療を必要としない。アトロピン点眼も良いが、効果が長く、コントロールがつきにくい。
G.禁忌薬剤:スキサメトニウム(サクシニルコリン)、その他コリン作働薬神経筋遮断剤スキサメトニウム(サクシニルコリン)の使用はコリンエステラーゼ阻害薬によってスキサメトニウムの分解が阻害され、呼吸筋麻痺を遷延させるのでさける。
(3)特異的処置(解毒剤・拮抗剤投与の詳細)
A.硫酸アトロピン:主に神経剤のムスカリン様作用の治療に有効で、ニコチン様作用(筋・横隔膜の脱力、筋線維束攣縮、昏睡、痙攣等)には効果が無い。
初回投与量
成人:軽症~中等症では2mg(4管)を筋注または静注、
重症では6mg(12管)を筋注。
小児:0.02~0.08mg/kgを筋注または静注
追加投与
5~10分で効果が得られない場合、2mgを再投与。
脈拍数70/分以上を維持量の基準とする。
脈拍は他の要因の影響をうけるので、神経剤中毒のアトロピン療法の指標には、流涎の消失、皮膚の乾燥、気道内分泌物の低下を用いるべきとの考えもある。
(参考)米軍使用の自動注射製剤AtroPen(R)はアトロピン2mg/本含有
米国では、アトロピンの中枢神経系への効果が薄いため、より中枢神経系への作用が強く、神経剤による痙攣の予防が期待でき、ムスカリン作用を抑制する、スコポラミンをアトロピンと併用することも推奨されている。
B.オキシム剤投与:重篤なニコチン様作用あるいは中枢神経作用に対して用いる。
1)PAMヨウ化物:
可能な限り早期に投与する。眼症状、鼻汁のみの軽症例には投与の適応はない。
広く有機リン中毒の治療薬として使用されているが、用法・用量に関しては、様々な議論があり、合意形成には至っていない。PAM自体にChE阻害作用があるので、必ず、アトロピンを併用する。
① パム静注500 mg<大日本住友製薬>の添付文書にある用法・用量
PAMヨウ化物として、通常成人1回1gを静脈内に徐々に注射する。
なお、年齢、症状により適宜増減する。
インタビューフォームには次の用法・用量が参考として掲載されている。
初回投与:1~2g(小児では20~40mg/kg)を生食100mLに溶解し、15~30分間かけて点滴静注または5分間かけて徐々に静注する。パム投与初期には呼吸管理を十分に行う。
継続投与:投与後1時間経過しても十分な効果が得られない場合、再び初回と同様の投与を行う。それでも筋力低下が残る時は、慎重に追加投与を行う。0.5g/hrの点滴静注により1日12gまで投与可能。
2)PAM塩化物:
米軍ではアトロピン(2mg)、PAM塩化物(600mg)の自動注射器を各自3本携帯させ、自己治療・戦友治療に同時使用(筋注)させている。加えて痙攣に対してジアゼパム(10mg)自動注射器1本を携帯させている。現在ではさらに600mgのPAMと2.1mgのアトロピンを一回同時投与できる製剤(DuoDote®)に置き換わっている。
3)オビドキシム塩化物:
オビドキシム塩化物(OBIDOXIME DICHLORIDE)はPAMより低毒性で代替薬として有効であるが、臨床経験が少ない。サリン、VXタブンに有効性が高く、ソマンには有効性が低いとされている。しかし、欧州特にドイツでは、PAMよりも有効であるとされている。低用量の投与の場合は、容易に血液脳関門を通過しない。静注による高用量の投与の場合は、血中濃度のピークに達し、また血液脳関門を通過する。250mg静注し、その後時間当たり30mgを持続投与する。
4)その他のオキシム剤:
HI-6;オキシム剤として、曝露後治療薬及び予防薬としても最も有望視されている。ただし、タブンソマンには有効性が低いとされる。
サリン、VXに優れたAChE賦活作用を有する。
カナダ軍では、2010年アトロピンとHI-6(2塩化物)、あるいはHI-6(DMS) の自動注射器を導入しているが、わが国では入手できない。
Hagedorn oxime (HLö-7);最新のオキシム剤。犬や猿の動物実験では、より広い範囲の神経剤に有効であるとされるが、ヒトデータは不足している。
5)butyrylcholinesterase:
10年ほど前から、ヤギにヒトbutyrylcholinesteraseの遺伝子を導入して乳汁中にヒト butyrylcholinesterase を大量生産し、経静脈投与する技術が開発され、有望視されている。

*経皮の場合
(1)基本的処置
A.除染:医療者は二次汚染を避けるために個人防護装備を着用する。
吐物は密閉容器に入れて注意深く廃棄する。
汚染された衣類は除去し、有害廃棄物として処理する。
液滴汚染部位や露出部は、石鹸と大量の水で洗浄する。
以前は次亜塩素酸塩100~500ppm(0.01~0.05%)液を使用した除染が推奨されていたが、濃度調整の際のミスが起きうることや皮膚が荒れる(生体の防御としての皮膚バリアの破綻を意味する)ため、最近では勧められない。
露出部の皮膚や毛髪はRSDL® (Reactive Skin Decontamination Lotion)でぬぐい取り除染も有効である。
B.症状のある患者はすべての症状が改善するまで経過観察する。
(2)対症療法
痙攣対応、肺水腫の治療、必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。
(3)特異的処置
アトロピン、PAM等オキシム剤投与、吸入の場合に準じて治療する。
*眼に入った場合
(1)基本的処置
A.除染:大量の微温湯または生理食塩液で15~30分洗眼する。
洗浄後に疼痛、腫脹、流涙、羞明等の症状が残る場合、眼科的診察が必要である。
B.眼に入って全身症状が出現することがあるので、注意深く観察する。
(2)対症療法
A.縮瞳:眼への直接曝露による縮瞳は、全身投与のアトロピンに反応しない。
・眼痛(毛様痛)を伴う場合、散瞳薬の点眼が有効。
トロピカミド・塩酸フェニレフリン(ミドリン® P点眼液)を点眼、または塩酸シクロペントラート(サイプレジン® 1%点眼液)を点眼する。(アトロピン点眼も良いが、効果が長く、コントロールがつきにくい。)
・殆どは眼への治療は必要としない、痛みや暗さ等を訴えなければ、対光反応が戻るまで経過観察を行う。
B.充血:毛様充血-トロピカミド・塩酸フェニレフリン(ミドリン® P点眼液)点眼
結膜充血-0.02%フルオロメトロン(フルメトロン® 点眼液0.02%)点眼16)
C.びまん性表層角膜症:抗生剤眼軟膏、1%コンドロイチン硫酸エステルナトリウム(コンドロン® 点眼液1%)点眼
D.その他:必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。

*経口の場合
(1)基本的処置
A.催吐:禁忌
B.胃洗浄:気道確保、痙攣対策を行った上で実施する。
C.活性炭・下剤投与
(2)対症療法
痙攣対策、肺水腫の治療、必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。
(3)特異的処置
アトロピン、PAM等のオキシム剤投与、吸入の場合に準じて治療する。
Ⅰ.2.ソマン(GD)
概要

ソマンはサリンタブンVXと同じく神経剤に分類される化学剤である。その構造から、P-メチルホスホノフルオリド酸 ピナコリル、あるいはIUPAC系統名として P-メチルホスホノフルオリド酸 1,2,2-トリメチルプロピル、と呼ぶこともできる。1944年にドイツの化学者、リヒャルト・クーンによって3番目のG剤として開発され、US code でGDとも呼ばれる。最大の特徴は、結合したアセチルコリンエステラーゼ(以下AChE)が不可逆老化(エージング)する時間が数分と短く、治療薬のPAM使用を数分以内に行わなければならないことになるが、これは事実上不可能である。
無色~茶色がかった液体で、速やかに蒸発する。わずかに果実臭、カンフル臭がある。非常に作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。酸または酸性蒸気と接触すると、フッ化水素を遊離する。また、加熱すると刺激性のフューム(フッ化物、リンの酸化物)を遊離し、肺水腫を引き起こす。以下の症状の右へ行くほど重症である。縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

Ⅰ.2.1.物性

無色液体、わずかな果実臭がある。可燃性あるも、爆発的には燃えない。
サリンに比べると沸点が高く、蒸気圧、揮発度がともに低く、蒸発しにくい。
[構造式]

[分子量]182.19
[比重] 空気より重い
[沸点] 198℃
[凝固点] -42℃
[蒸気圧]0.05332 kPa(≒0.40 mmHg)
[揮発度]3900mg/m3(25℃)
[引火性]可燃性
[溶解性]

(参考)神経剤は一般に水溶性は中程度で、脂溶性が高い。

[反応性]

酸または酸性蒸気と接触するとフッ化水素を遊離する。加熱すると分解し、刺激性のある有毒フューム(フッ化物;F-、リン酸化物;POx)を発生する。

[環境汚染の持続時間]

VX以外の有機リン剤は環境中で比較的速く分解する
すべての有機リン剤エステルは水中で加水分解を受け、一般的に加水分解物は親化合物よりも毒性が低い。
次亜塩素酸で分解されるが、分解時に塩化シアン(CNCl)を発生するので注意する。VXを除く神経剤は数時間で蒸発、分散するので、環境では通常、非持続性と考えられている。
Ⅰ.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

極めて速やかにコリンエステラーゼ阻害作用が発現する。
ソマン、サリンタブン等の神経ガスは毒性が強く、実験動物にはmg以下の量で致死的となる。ソマンはVXより毒性は低いが、サリンタブンより毒性は強く、1滴で致死的である。
皮膚、眼に対して浸透による強い作用を示す。
酸または酸性蒸気と接触すると、フッ化水素を遊離し、フッ化水素中毒を引き起こす可能性がある。
加熱すると分解し、刺激性のある有毒フューム(フッ化物;F-、リン酸化物;POx)を発生 する。
[ヒト中毒量]

吸入ヒト最小中毒量:(ガス)1×10-5mg・分/m3
半数不能量:タブン(約300mg・分/m3)とサリン(75mg・分/m3)の間

[ヒト致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):35~50mg・分/m3
経皮ヒト推定半数致死量(LD50):(液体)100mg/人、350mg/人
経皮ヒト推定致死量:(ガス)11000mg・分/m3
経皮ヒト半数致死量(LD50):5mg/kg(350mg/70kg)

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

神経剤GD(ソマン) 96-64-0
ppm [mg/m3]
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 0.00046 0.00026 0.00018 0.000091 0.000065
(不快レベル) [0.0035] [0.0020] [0.0014] [0.00070] [0.00050]
AEGL 2 0.0057 0.0033 0.0022 0.0012 0.00085
(障害レベル) [0.044] [0.025] [0.018] [0.0085] [0.0065]
AEGL 3 0.049 0.025 0.017 0.0091 0.0066
(致死レベル) [0.38] [0.19] [0.13] [0.070] [0.051]

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

中毒作用機序

AChEと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、中毒症状を引き起こす。

・AChE阻害作用:
AChEの活性部位に結合し、酵素を阻害する。
ソマンはタブンサリンに比べてAchE阻害作用が最も強い。(マウス)
エージング半減期:ソマン;約2分
サリン;約5時間
タブン;40時間以上
VX;40時間以上
・ソマンは酸または酸性蒸気と接触するとフッ化水素を発生し、フッ化水素中毒を引き起こす可能性がある。
体内動態

[吸収]

肺、皮膚、結膜から速やかに吸収される。
経口摂取時は消化管からも吸収される。

[分布]

マウスに静注後、脳全体に均一に分布したが、視床下部がやや高濃度であった。
実験動物でソマンは明らかに体内に貯蔵され、たえず遊離されている。
肝における代謝速度は遅く、蓄積する。

[排泄]

マウスに静注時、約50%が1分以内に遊離のpinacolylmethylphosphonic acidとなり、この代謝物の消失半減期は1時間以内であった。
Ⅰ.2.3.症状

神経剤共通の症状を示す。
詳細はサリンのⅠ.1.3項を参照。

Ⅰ.2.4.治療

神経剤共通の治療方針となる。ただし、エージングが早いため、PAMなどのオキシム剤はほとんど効果を期待できない。
詳細はサリンのⅠ.1.4項を参照。

Ⅰ.3.タブン(GA)
概要

タブンはサリンソマンVXと同じく神経剤に分類される化学剤である。1936年にドイツで開発された神経ガス(nerve agent)で、第二世代(第一次世界大戦で製造・使用された毒ガスが第一世代)の毒ガスである。1938年にサリン、1944年にソマンがドイツで合成されたため、German gasの頭文字をとってG剤と呼ばれ、開発順にGA、GB、GDというコードネーム US Code がつけられた。「タブン」という名称は、タブンがドイツ軍の正式兵器として採用される以前、Le-100という名称で研究されていた際に、Le-100の効果を検討する会議に出席したあるドイツ軍人がその毒性の強さに「これはタブーだ」とコメントしたことによる。イラン・イラク戦争で1983年にイランがはじめてタブンを使用した。強いアセチルコリンエステラーゼ(以下AChE)阻害作用を有する無色~茶色がかった液体または無色の蒸気で、わずかに果実臭がある。非常に作用が速く、吸入曝露、皮膚曝露、経口摂取によって、全身症状を呈する。水または酸と接触すると、シアン化水素を遊離する。漂白剤(さらし粉)によって分解し、塩化シアンを発生する。また、加熱するとシアンやリンの酸化物である刺激性のフュームを遊離し、肺水腫を引き起こす。臨床症状は重症の有機リン剤中毒に準じ、治療もそれと同様に硫酸アトロピンやプラリドキシム(以下PAM)を投与する。以下の症状の右へ行くほど重症である。縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

Ⅰ.3.1.物性

茶色がかった無色の液体で、蒸気は無色である。不純物が微量存在するとかすかな果実臭(ビターアーモンド様)がある(純粋なものは無臭、無色)。蒸気圧、揮発度がともに低く、蒸発しにくい。熱すると発生する蒸気は空気と混ざると爆発の可能性ある。同様に容器が熱せられると爆発の可能性がある。
[構造式]

[分子量]162.12
[比重]1.073(空気より重い)
[沸点]150℃で約3時間後に完全分解
[凝固点]-50℃
[蒸気圧]0.009331 kPa(≒0.07 mmHg)
[相対蒸気密度]5.63(空気=1)
[揮発度]610mg/m3(25℃)
[溶解性]水に溶け、速やかに加水分解する。
[反応性]

強酸、アルカリと速やかに反応して加水分解する。
水または酸と接触すると、シアン化水素を遊離する。
漂白剤(さらし粉)によって分解し、塩化シアンを発生する。
加熱すると分解し刺激性のある有毒フューム(POx、CN-、NOx)を発生する。

[環境汚染の持続時間]

タブンは水中または湿った土壌中では速やかに分解する。
水中半減期;25℃ 175分、20℃ 267分、15℃ 475分
99.9%分解されるのに要する時間は、海水中で45時間、蒸留水中で22時間
VXを除く神経剤は数時間にわたって蒸発、分散するので、環境では通常、非持続性と考えられている。
タブンを土壌表面に適用する野外実験で、1.71時間で適用量の50%、4.66時間で90%が大気中に蒸発した。
大気中では蒸気相に存在し、水酸基ラジカルによって光で分解される。
大気中推定半減期;4.8時間
Ⅰ.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

極めて速やかにAChE阻害作用が発現する。タブンはパラチオンより毒性が強い。吸入曝露時が特に毒性が強いが、経口摂取、経皮、眼に入った場合も吸収されて毒性を示す。皮膚に対してタブン蒸気は容易には浸透しないが、液体は非常に速やかに浸透する。水または酸と接触すると、シアン化水素を遊離する。漂白剤(さらし粉)によって分解し、塩化シアンを発生する。加熱すると分解し、刺激性のある有毒フューム(POx、CN-、NOx) を発生する。
[ヒト中毒量]

半数不能量:約300mg・分/m3吸気(休息中)
視力消失:3.2mg・分/m3 吸気

[ヒト致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):150~400mg・分/m3
経皮ヒト推定半数致死量(LD50):(液体)1000mg/人
経皮ヒト推定致死量:(ガス)20,000mg・分/m3、30,000mg・分/m3

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

神経剤GA(タブン) 77-81-6
ppm [mg/m3]
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 0.0010 0.00060 0.00042 0.00021 0.00015
(不快レベル) [0.0069] [0.0040] [0.0028] [0.0014] [0.0010]
AEGL 2 0.013 0.0075 0.0053 0.0026 0.0020
(障害レベル) [0.087] [0.050] [0.035] [0.017] [0.013]
AEGL 3 0.11 0.057 0.039 0.021 0.015
(致死レベル) [0.76] [0.38] [0.26] [0.14] [0.10]

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

中毒作用機序

ChEと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、中毒症状を引き起こす。

・AChE阻害作用:
AChEの活性部位に結合し、酵素を阻害する。
タブン、サリンソマンに比べてAChE阻害作用は弱い。(マウス)
エイジング半減期:タブン;40時間以上
ソマン;約2分、サリン;約5時間、VX;40時間以上)
・タブンは水や酸と接触すると分解し、シアン化水素を、漂白剤に触れると塩化シアンを発生し、シアン化水素中毒、塩化シアン中毒を引き起こす可能性がある。
体内動態

[吸収]

肺、皮膚、結膜から速やかに吸収される。
経口摂取時は消化管からも吸収される。

[分布]

マウスに静注後、脳全体に均一に分布したが、視床下部がやや高濃度であった。

[代謝]

肝における代謝速度は遅く、蓄積する。

[排泄]

マウスに静注時、約50%が1分以内に遊離のpinacolylmethylphosphonic acidとなり、この代謝物の消失半減期は1時間以内であった。
Ⅰ.3.3中毒症状

神経剤共通の症状を示す。
詳細はサリンのⅠ.1.3項を参照。

Ⅰ.3.4.治療

神経剤共通の治療方針となる。
詳細はサリンのⅠ.1.4項を参照。

Ⅰ.4.VX
概要

VXはサリンタブンソマンと同じく、神経剤に分類される化学剤である。1952年にラナジット・ゴーシュ (Ranajit Ghosh) によってイギリスのポートンダウン(Porton Down)にある政府研究施設で開発された第三世代(第一次世界大戦で製造・使用された毒ガスが第一世代、1930~1940年代にドイツで開発されたタブンサリンソマン等のG剤が第二世代の毒ガスである)の毒ガスである。米国では1959年にVXの工場がつくられ、1961年に生産開始、1969年に生産が中止されるまでに数万トンが生産されたといわれている。日本で1994~1995年にオウム真理教の犯行グループが個人のテロのためVXを使用した。最近では、2017年2月に金正男とされる人物が暗殺された手段がバイナリーのVXであるとされた。このほか、使用法としては、通常の砲弾、ロケット弾に充填して、航空機からエアロゾルの形で散布されたり、ミサイルの化学弾頭に詰められたりもする。粘度が高いため、溶剤(n-ヘキサン等)に溶かして散布することもある(オウム真理教の犯行グループは注射器に詰めて対個人的に使用した)。
強いアセチルコリンエステラーゼ(以下、AChE)阻害作用を有し、神経剤の中で最も毒性が強い。無色~琥珀色、無臭の油状液体で、揮発しにくい。非常に作用が速く、特に皮膚曝露によって全身症状を呈する。他の神経剤よりも環境汚染が持続し、毒ガスとしての作用が長く持続する。臨床症状は重症の有機リン剤中毒に準じ、治療もそれと同様に硫酸アトロピン、プラリドキシム(以下PAM)を投与する。下記の症状の右へ行くほど重症であるとされる。縮瞳→鼻汁→気管支痙攣→分泌亢進→呼吸障害→痙攣→呼吸停止。 二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

Ⅰ.4.1.物性

無色無臭の液体(20℃)で、極めて揮発しにくい。散布後有毒ガスを何日間も放出し続ける能力および持続性のある、「戦場で効率的に配備できて最大の効果をもたらし、敵に利をもたらさない」(“terrain denial”)軍事化学物質である。 条件によっては、環境汚染が4ヶ月以上持続する。V剤は特にアルカリ溶液中でサリンよりも加水分解に対して抵抗性がある。

[構造式]

[分子量]236.44
[比重]1.0083g/mL(25℃)
[沸点]298℃(計算値)
[凝固点]<-51℃
[蒸気圧]9.3325 kPa(≒0.0007mmHg) (25℃)
[相対蒸気密度]9.2(空気=1)
[揮発度]10.5mg/m3 (25℃)、揮発しにくい。揮発に必要な時間;1800秒
[反応性]加熱すると分解し、有毒フューム(SOx、NOx)を発生する。
[環境汚染の持続時間]

VXは毒ガスとしての作用が長く持続する。他の神経ガスよりも環境汚染が持続する。
地面汚染によって予想される有害作用の持続時間:
気温10℃、雨の降っている中程度の風のある日;1~12時間
気温15℃、晴れで、微風のある日;3~21日
気温-10℃、晴れで、風がなく、雪が降っている日;1~16週間
Ⅰ.4.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

極めて速やかにコリンエステラーゼ阻害作用が発現する。阻害作用はサリンよりも強い。赤血球ChE(真性コリンエステラーゼ)を阻害する。化学兵器の中で最も毒性が高い。VXは皮膚からきわめてよく吸収され、皮膚曝露ではサリンの約100倍の毒性を示す。揮発しにくいが温度が高いと蒸気吸入曝露が起こり、サリンの約3倍の毒性を示すと推定される。VXは他の神経ガスよりも環境汚染が持続する。加熱すると分解し、有毒フューム(SOx、NOx)を発生する。
[ヒト中毒量]

吸入ヒト最小中毒量:(ガス)5×10-6mg・分/m3(ロシア軍)
(ガス)1.10×10-5mg・分/m3 (米軍)
経口ヒト;TDLo:4μg/kg 悪心、嘔吐、消化管運動亢進、下痢
筋注ヒト;TDLo:3200ng/kg  視野変化、傾眠、悪心、嘔吐
皮下注ヒト;TDLo:30μg/kg 頭痛、悪心、嘔吐
静注ヒト;TDLo:♂1500ng/kg 幻覚、認識力低下、悪心、嘔吐
軍用有効濃度(または不能量):>0.5mg・分/m3
半数不能量:50mg・分/m3
地面がVX 0.5~5mg/m2で汚染されると、個人防護装備や除染なしでは極度に危険である。

[ヒト致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):10mg・分/m3
吸入ヒト推定致死量:(ガス)0.1mg・分/m3
静注ヒト;LD50:0.008mg/kg
筋注ヒト;LD50:0.012mg/kg
経皮ヒト;LD50:0.315mg/kg
経皮ヒト推定半数致死量(LD50):(液体)6mg/人、6~10mg/人
(V剤)経皮ヒト推定致死量:(液体)♂2~10mg
吸入ヒト推定致死量:(エアロゾル)♂5~10mg・分/m3

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

神経剤VX 50782-69-9
ppm [mg/m3]
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 0.000052 0.000030 0.000016 0.0000091 0.0000065
(不快レベル) [0.00057] [0.00033] [0.00017] [0.00010] [0.000071]
AEGL 2 0.00065 0.00038 0.00027 0.00014 0.000095
(障害レベル) [0.0072] [0.0042] [0.0029] [0.0015] [0.0010]
AEGL 3 0.0027 0.0014 0.00091 0.00048 0.00035
(致死レベル) [0.029] [0.015] [0.010] [0.0052] [0.0038]

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

中毒作用機序

AChEと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、中毒症状を引き起こす。

・AChE阻害作用:
AChEの活性部位に結合し、酵素を阻害する。
VXのAChE阻害作用はサリンよりも強い。
エイジング半減期:VX;40時間以上
ソマン;約2分、サリン;約5時間、タブン;40時間以上)
・ほとんど揮発しないため、経気道曝露でよりも経皮曝露により中毒をきたす。
体内動態

[吸収]

VXは皮膚からきわめてよく吸収される。
(神経剤)肺、皮膚、結膜から速やかに吸収される。
経口摂取時は消化管からも吸収される。

[代謝]

肝における代謝速度は遅く、蓄積する。
Ⅰ.4.3.症状

概要

以下のような有機リン剤と同様の中毒症状が出現する。

ムスカリン様症状:縮瞳、気管分泌物過多、鼻汁、流涙、尿失禁、腹痛、嘔吐、徐脈、気管支攣縮、流涎、発汗、下痢、血圧低下
ニコチン様症状:筋肉の痙攣、硬直、虚脱、麻痺、頻脈、血圧上昇、呼吸麻痺
中枢神経症状:不安、興奮、不眠、悪夢
中枢神経系抑制、混乱、せん妄、頭痛、昏睡、痙攣
皮膚曝露時:皮膚から極めてよく吸収され、急速に症状が発現する。少量の場合、曝露部位のみ、筋線維束性攣縮、発汗を認めることがある。
多量では、次いで嘔気、嘔吐、下痢などの消化器症状、全身発汗、倦怠感がみられることがある。極めて大量または致死量に近い量では、10~30分の無症状期のあとに突然、意識消失、痙攣、弛緩
性麻痺、無呼吸を起こす。
蒸気曝露時:低濃度の蒸気曝露で、数秒~数分の間に、縮瞳、視覚障害、鼻汁過多、呼吸困難を来す。
高濃度の蒸気では1~2分で意識を消失し、その後、痙攣、弛緩性麻痺、無呼吸を来す。縮瞳、流涙、流涎、鼻汁や気道内分泌物の過剰分泌もあり、発汗、筋線維束性攣縮、尿失禁などがおこる。
・重症例では意識障害が出現し、急速に増悪する。意識障害の回復の経過中、興奮、独語、幻覚等の精神症状が出現する。この意識障害が7日間位続くことがある。これらの意識障害や精神症状は徐々に回復し、合併症がない限り、完全に回復する。
・神経剤中毒では他の有機リン剤中毒に比べて、縮瞳が著明である。
詳細症状

(1)神経症状

①ムスカリン様症状:縮瞳、気管分泌物の増加、鼻汁、流涙、尿失禁、腹痛、嘔吐、徐脈、気管支攣縮、流涎、発汗、下痢、血圧低下
②ニコチン様症状:筋肉の痙攣・硬直、循環虚脱、頻脈、血圧上昇、攣縮、呼吸麻痺
③中枢神経症状:不安、興奮、不眠、悪夢等、中枢神経系抑制、混乱、せん妄、頭痛、昏睡、痙攣

(2)呼吸器系症状

気管分泌過多、気管支攣縮、胸部圧迫感、呼吸困難、呼吸不全、誤嚥による化学性肺炎、化学性肺炎、肺水腫は、加熱分解された有毒・刺激性フュームの吸入による。

(3)循環器系症状

徐脈、血圧低下、不整脈、心筋炎、頻脈、血圧上昇

(4)消化器系症状

嘔気、嘔吐、下痢、腹痛、流涎、便失禁、腸重積症(14ヵ月児の1例報告あり)

(5)泌尿器系症状

頻尿、尿量減少、蛋白尿、

(6)その他:

・眼 :縮瞳(著明)、複視、流涙
外眼筋間代性痙攣(斜視または眼振様痙攣)
羞明;時に数ヵ月続くことがある。
最重症では散瞳
慢性視力低下
・酸・塩基平衡:代謝性アシドーシス
・血液:血液凝固異常、出血傾向
血清CPKの上昇;重症例では高値
・鼻 :くしゃみ、鼻汁
・喉 :唾液分泌の増加
・皮膚:発汗、経皮曝露で皮膚炎
・骨格筋:筋脱力・疲労、筋線維束性攣縮、筋麻痺
・内分泌:高血糖
・精神病:精神障害、種々の人格・行動異常(慢性曝露)、思考異常、健忘症、言語障害、抑鬱
・免疫:免疫系の異常、アレルギー反応(皮膚症状)
・その他:低体温
・妊娠時の作用:データなし
・検査所見:血漿・赤血球コリンエステラーゼの低下
全身症状(嘔吐、下痢、呼吸器症状。筋繊維束性攣縮)が出現する大量曝露があった場合、赤血球中AChE活性は通常、正常値の30%以下である。
血液や尿の検体や患者に残された爆弾の破片等異物、除染廃液等は、確定診断のみならず捜査上も重要であるので、余裕がある限り、検体の確保と保存に努める
予後
・1994年12月の会社員VX殺害事件では、被害者が自宅から出てきた後を追い、淀川区の路上でVXを後頭部に注射器で噴射しようとしたところ、針を付けたまま注射。被害者は「痛い」と声を出し、犯人らを追いかけるも、間も無くうめき声をあげて痙攣を起こし路上に倒れ、通行人が110番通報。ただちに大阪大学医学部附属病院に搬送されたが、脳死状態となり、10日後に死亡した
・2017年2月に金正男とされる人物がVXによって暗殺された事件では、曝露後、そのまま歩行して、現場の空港にあるクリニックを自ら受診後、急変、救急車搬送中に心肺停止状態になったとされる。
Ⅰ.4.4.治療

概要

VXは皮膚から吸収されやすいので、汚染部位の除染は至急行う。
アトロピンはムスカリン様症状のコントロールには有効で、ジアゼパムは痙攣等の中枢神経症状を制御するために使用できる。
PAMはVXには有効性が高い。VXではサリンソマンに比べて、エイジングはゆっくりと起きる。動物で曝露後48時間までPAM治療による酵素賦活が有効であった。
エイジング半減期:VX;40時間以上
タブン;40時間以上、ソマン;約2分、サリン;約5時間)

・診断
VXの曝露を受けても皮膚の局所症状は出現しないため、気付かれないことが多く、脳血管障害と誤診されることがある。そのため診断が遅れることが多い。
血漿・赤血球コリンエステラーゼの低下、重症例では低下が著しい。
血液、衣服、さらに土や水等の一般環境からのVXまたはその代謝産物である。
メチルホスホン酸エチルやメチルホスホン酸の検出が診断に有用である。
・呼吸循環機能の維持管理
弛緩剤が必要な時には、神経筋遮断剤スキサメトニウム(サクシニルコリン)の使用は、コリンエステラーゼ阻害剤によってスキサメトニウムの分解が阻害され、呼吸筋麻痺を遷延させるので避ける。ジアセパムかチオペンタールを麻酔導入剤として使用する。十分な補液を行う。
・観察期間:縮瞳以外の症状がすべて消失するまで、入院・経過観察を行う。

縮瞳はまれに数週間持続することがある。

詳細
*吸入の場合
(1)基本的処置
A.除染:新鮮な空気下に避難させる。
医療者は二次汚染を避けるために個人防護装備を着用する。
吐物は密閉容器に入れて注意深く廃棄する。
汚染された衣類は除去し、有害廃棄物として処理する。
曝露された皮膚、眼は、水で洗浄する。
以前は次亜塩素酸塩100~500ppm(0.01~0.05%)液を使用した除染が推奨されていたが、濃度調整の際のミスが起きうることや皮膚が荒れる(生体の防御としての皮膚バリアの破綻を意味する)ため、最近では勧められない。
露出部の皮膚や毛髪は商品化されたRSDL® (Reactive Skin Decontamination Lotion)でぬぐい取り除染を行う。
B.呼吸不全を来していないかチェック。
C.全身症状が出現しないか注意深く観察する。

(2)対症療法

A.酸素投与:気道確保、酸素投与、人工呼吸等を一般の救命処置に準じて行う。
B.痙攣対応:ジアゼパム等の抗痙攣薬によりコントロールする。
難治性、再発性の場合、フェノバルビタールまたはフェニトイン
等の抗痙攣剤を使用する。
動物ではジアゼパムよりミダゾラムが効果的であった。
ジアゼパムは、痙攣を発症した例のみに使い、痙攣のない症例には使わない。
C.肺水腫の監視:24~72時間後に肺水腫が出現することがある。
動脈血ガスをモニターするなど呼吸不全の発生に留意する。
D.気管支痙攣:アトロピン投与で不十分であれば、交感神経刺激薬やテオフィ
リン等の気管支拡張薬を使用する。
E.不整脈対策:心電図モニター、一般的な不整脈治療
F.極軽症(縮瞳のみ):サリンに準じて、トロピカミド・塩酸フェニレフリン(ミドリン® P点眼液)、塩酸シクロペントラート(サイプレジン® 1%点眼液)を点眼。または治療を必要としない。(アトロピン点眼も良いが、効果が長く、コントロールがつきにくい。)
G.精神症状:ハロペリドールを使用することもある。
H.禁忌薬剤:サクシニルコリン(suxamethomium)、その他コリン作働薬(気管挿管のために筋弛緩剤が必要な場合、サクシニルコリンは筋麻痺を延長する可能性があるため避けるべきである。)

(3)特異的処置

A. 硫酸アトロピン:主に神経剤のムスカリン様作用の治療に有効で、ニコチン様作用(筋・横隔膜の脱力、筋線維束攣縮、昏睡、痙攣等)には効果がない。
初回投与量
成人:軽症~中等症では2mg(4管)を筋注または静注、重症では6mg(12管)を筋注。
小児:0.02~0.08mg/kgを筋注または静注
追加投与:5~10分で効果が得られない場合、2mgを再投与。
脈拍数70/分以上を維持量の基準とする。
脈拍は他の要因の影響をうけるので、神経剤中毒のアトロピン療法の指標には、流涎の消失、皮膚の乾燥、気道内分泌物の低下を用いるべきとの考えもある。
(参考)
米軍使用の自己注射AtroPen(R)はアトロピン2mg/本含有
B.オキシム剤投与:重篤なニコチン様作用あるいは中枢神経作用に対して用いる。
1) PAM:
可能な限り速やかに筋注する。神経剤に曝露され、症状のある患者には、全て適応となる。可能な限り早期に投与する。
用法・用量に関しては様々な議論があり、合意形成には至っていない。
① パム静注500 mg<大日本住友製薬>の添付文書にある用法・用量
PAMヨウ化物として、通常成人1回1gを静脈内に徐々に注射する。
なお、年齢、症状により適宜増減する。
インタビューフォームには次の用法・用量が参考として掲載されている。
初回投与:1~2g(小児では20~40mg/kg)を生食100mLに溶解し、15~30分間かけて点滴静注または5分間かけて徐々に静注する。パム投与初期には呼吸管理を十分に行う。
継続投与:投与後1時間経過しても十分な効果が得られない場合、再び初回と同様の投与を行う。それでも筋力低下が残る時は、慎重に追加投与を行う。0.5g/hrの点滴静注により1日12gまで投与可能。
2) PAM塩化物:
米軍ではアトロピン(2mg)、PAM塩化物(600mg)の自動注射器を各3本/人を携帯させ、自己治療・戦友治療に同時使用(筋注)させている。さらに痙攣に対してジアゼパム(10mg)自動注射器1本を携帯させ、アトロピン投与後に使用させている。現在ではさらに600mgのPAMと2.1mgのアトロピンを一回同時投与できる製剤(DuoDote®)に置き換わっている。
3)オビドキシム塩化物:
オビドキシム塩化物(OBIDOXIME DICHLORIDE)はPAMより低毒性で代替薬として有効であるが、臨床経験が少ない。サリン、VX、タブンに有効性が高く、ソマンには有効性が低いとされている。しかし、欧州特にドイツでは、PAMよりも有効であるとしている。低用量の投与の場合は、容易に血液脳関門を通過しない。静注による高用量の投与の場合は、血中濃度のピークに達し、また血液脳関門を通過する。
250mg静注または筋注1回投与(中等症)、もしくは初回250mg静注または筋注1回
4)その他のオキシム剤:
HI-6;オキシム剤として、曝露後治療薬及び予防薬としても最も有望視されている。VXに優れたAChE賦活作用を有する。
カナダ軍では、2010年アトロピンとHI-6(2塩化物)、あるいはHI-6(DMS) の自動注射器を導入しているが、わが国では入手できない。
Hagedorn oxime (HLö-7) ;最新のオキシム剤。犬や猿の動物実験では、より広い範囲の神経剤に有効であるとされるが、ヒトデータは不足している。
5)butyrylcholinesterase
10年ほど前から、ヤギにヒトbutyrylcholinesteraseの遺伝子を導入して乳汁中にヒト butyrylcholinesterase を大量生産し、経静脈投与する技術が開発され、有望視されている。

*経皮の場合

(1)基本的処置
A.除染:医療者は二次汚染を避けるために個人防護装備を着用する。
吐物は密閉容器に入れて注意深く廃棄する。
汚染された衣類は除去し、有害廃棄物として処理する。
石鹸と大量の水で洗浄する。
以前は次亜塩素酸塩100~500ppm(0.01~0.05%)液を使用した除染が推奨されていたが、濃度調整の際のミスが起きうることや皮膚が荒れる(生体の防御としての皮膚バリアの破綻を意味する)ため、最近では勧められない。
露出部の皮膚や毛髪は商品化されたRSDL® (Reactive Skin Decontamination Lotion)でぬぐい取り除染を行う。
B.症状のある患者はすべての症状が改善するまで経過観察する。
(2)対症療法
痙攣対策、肺水腫の監視他、必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。
(3)特異的処置
アトロピン、PAM等オキシム剤投与、吸入の場合に準じて治療する。

*眼に入った場合

(1)基本的処置
A.除染:曝露部位を大量の微温湯または生理食塩液で15~30分洗浄する。
洗浄後に疼痛、腫脹、流涙、羞明等の症状が残る場合、眼科的診察が必要。
B.眼に入って全身症状が出現することがあるので、注意深く観察する。
(2)対症療法
A.縮瞳:
・眼への直接曝露による縮瞳は、全身投与のアトロピンに反応しない。
・トロピカミド・塩酸フェニレフリン(ミドリン® P点眼液)を点眼、または塩酸シクロペントラート(サイプレジン® 1%点眼液)を点眼する。
(アトロピン点眼も良いが、効果が長く、コントロールがつきにくい。)
・または治療を必要としない。
(痛みや暗さ等を訴えなければ、対光反応が戻るまで経過観察を行う)。
B.その他:必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。

*経口の場合

(1)基本的処置
A.催吐:禁忌(痙攣、昏睡の可能性があるため)
B.胃洗浄:気道確保、痙攣対策を行った上で実施する。
C.活性炭・下剤投与
(2)対症療法
痙攣対応、肺水腫の治療他、必要ならば、吸入の場合に準じて治療する。
(3)特異的処置
アトロピン、PAM等オキシム剤投与、吸入の場合に準じて治療する。
II.びらん剤
II.1.マスタード(H,精製マスタード:HD)
概要

マスタードは、皮膚、眼及び呼吸器に作用し、接触部位をびらんさせる化学剤である。1859年にドイツのニーマンにより合成された。第一次世界大戦中にイープル戦でドイツ軍により初めて使用され、それにちなんでイペリット(Yperite)とも呼ばれる。硫黄を含むことから、サルファマスタード(Sulfur mustard gas)、硫黄マスタードとも呼ばれる。硫黄マスタードは、約30%の硫黄化合物(ほとんどが硫酸)を含んでいるが、蒸留により製造されたものはほとんど不純物を含まず、精製マスタードと言われている。マスタードは、1925年ジュネーブ議定書により戦時使用禁止が決議された(日本は1970年に批准) 。
旧日本陸軍では、1931年(昭和6年)に「きい一号(甲)、(乙)」として、1936年(昭和11年)に「きい一号(丙)」として武器として採用され、広島県大久野島で大量に生産された経緯がある。一方、旧海軍では「三号特薬甲」と呼称され、さがみ海軍工廠において製造された。
第二次世界大戦では実戦に使用されなかったが、1943年12月2日、イタリアの連合国側の重要補給基地であるバーリ港でドイツ軍は、輸送船・タンカーを始めとする艦船16隻を沈没させた。その際、アメリカ海軍リバティー型輸送船「ジョン・E・ハーヴェイ号」には大量のマスタードが積まれており、漏れたマスタードが輸送船から出た油に混じったため、救助された連合軍兵士たちは大量のマスタードに曝露した。翌朝、兵士たちは目や皮膚を侵され、重篤な患者は血圧の低下などを経て白血球値が大幅に減少し、結果、被害を受けた617人中83名が死亡した。一日あたりの死者の数を見ると、被害後2日目、3日目に最初のピークを迎え(マスタードによる直接の死者)、8日、9日後に再度ピーク(白血球減少症による感染症)を迎えた。この事件によりマスタードがX線同様に突然変異を引き起こす可能性が高いと考え、当時はX線照射療法しかなかった悪性リンパ腫の治療にマスタードが試みられた。第二次大戦中、大量に製造・貯蔵されて海洋等に投棄されたので、漁師等が曝露される事故が発生している。米国では現在は製造されていない(EPA,1985年)。数カ国は現在も大量に保有しており、事故または意図的使用による危険性が懸念されている。アルキル化剤として生物実験に少量使用される。2,2′-チオジエタノール(マスタードの前駆体)は一部の国を除いて輸出禁止となっている。
最近では1984年にイラン・イラク戦争の際に、イラク軍が使用した。2015年8月には、ISIS(Islamic State of Iraq and Syria)によるイラクでの使用が疑われている。マスタードに曝露する経路は、眼粘膜、皮膚、経気道曝露が多いが、飲食物がマスタードに汚染されていた場合は、経口により中毒となる。マスタードによる被災者の予後は、マスタードに曝露してから除染するまでの時間に依存する。特異的解毒剤はなく、対症療法が主となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。
びらん剤のなかで、接触時に痛みを生じないのはマスタードだけである。他のびらん剤(ルイサイトホスゲンオキシムなど)では痛みを伴うため、自ずと防御行動がとりやすくなるが、マスタードによる病変はより重症化しやすい。マスタードの皮膚病変は、ルイサイトのそれと異なり、水疱の周囲に紅斑を伴う。しかし、それだけでは実際の鑑別は不能である。

II.1.1.物性

常温では無色の液体。通常不純物が含まれていることが多く、黄色~暗褐色を帯び、チョコレートスプレッド状と表現される。からし、またはにんにくに似た特有の臭気を有する。精製マスタード(HD)は、臭気は少ない。人体だけでなくゴム、皮、木等の透過性も高い。
[構造式]

[分子量]159.08
[比重]

液体;1.2741(20℃)、1.2685(25℃) 固体;1.338(13℃)

[pH]データなし
[沸点]217℃(分解)、227℃
[凝固点]14.45℃
[相対蒸気密度]

5.4(空気=1)地面に沿って拡がるため低所では特に危険性が高い。

[蒸気圧]

95.976 hPa(≒0.072mmHg)(20℃)、1,199.7 hPa(≒0.9mmHg)(30℃)

[揮発度]630mg/m3(20℃)
[引火性]引火点105℃ 、燃焼性がある
[溶解性]

水に難溶。25℃で水1Lに0.68g、20℃で0.05%
油脂、ガソリン、灯油、アセトン、アルコールによく溶ける。
水中で緩徐に加水分解され塩酸とチオジグリコールを生じる。
塩水中では加水分解が遅延する。

[反応性]

化学的、物理的に比較的安定。
アルカリ化、高温では加水分解速度が増加する。
加熱または酸により分解し、毒性の強い硫化物、塩化物のフュームが発生する。
次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)、次亜塩素酸ナトリウム、クロラミンで不活化される。(水で徐々に加水分解され、次亜塩素酸カルシウムにより速やかに酸化され毒性の低いスルフォキシドとなるが、この反応は条件によっては不完全で、1952年にドイツで事故の際に土壌を水と次亜塩素酸カルシウムで繰り返し十分に処理したが、2週間後も微量検出された。)

[環境汚染の持続時間]

大気中:マスタード蒸気は光化学的に分解される。半減期 推定1.4日
土壌中:主に蒸発、加水分解により消失し、一部は浸透する。汚染された地面との接触または蒸発により被害を与えうる時間は、以下の気象条件下では次のように推定される。
気温-10℃、晴、無風、積雪:2-8週間
気温0℃:50-92日
気温10℃、雨、中程度の風速:12-48時間
気温15℃、晴、微風:2-7日
気温25℃:31-51時間
地中に大量に埋めた場合は、何十年も残存する可能性がある。
水中:半減期:5分(37℃)
低濃度では、迅速に加水分解される。
高濃度では、1.75時間(0℃)、4分(25℃)、43秒(40℃)
加水分解速度は速いが、水に難溶のため、水に溶けない部分がより長く残存する可能性がある。水中に大量に放棄した場合、水より重いので底に沈み、分解速度は溶解の程度(マスタードの表面積、水流、温度等により異なる)に依存する。水温が14.4℃以下であれば固体となり、溶解に数ヵ月~何年も要することがある。海水中に溶けだしたマスタードの分解半減期は15分(25℃)~175分(5℃)である。
II.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態

マスタードは人体を構成する蛋白質やDNAに対して強く作用することが知られており、蛋白質やDNAの窒素と反応(いわゆるアルキル化反応)し、毒性を呈する。このため、皮膚や粘膜などに作用すると共に、細胞分裂の障害を引き起こし、遺伝子を傷つけ、発癌性を持つ。また、抗がん剤と同様の作用機序であるため、造血器や腸粘膜にも影響が出る。

毒性

[ヒト中毒量]

地面の汚染:10-60mg/m2でも防護具や除染がなければ有害
経口ヒト;LD50:0.7mg/kg
眼:最小中毒量(Ct):12~70 mg・分/ m3
皮膚ヒト;65μgで皮膚刺激を生じる。
皮膚ヒト;LD50:100mg/kg
皮膚:最小中毒量(Ct):200mg・分/m3 (但し、気温、湿度、皮膚の湿り気、曝露部位による)
10μgの液体曝露でも水疱を生じることがある。
臭気閾値:0.03mg/L、0.015mg/m3
一般的に中毒濃度では臭気を感知できるが、訓練を受けていないヒトは気づかないこともある。

[曝露量と生体への効果]

曝露量(mg・分/ m3)   発現までの時間  臨床症状
皮膚  >200  4-8時間 紅斑、掻痒、知覚過敏
1000-2000 3-6時間 紅斑、水疱形成
10000 1-3時間 紅班
眼   <12     数時間-数日 発赤
50-100 4-12時間 結膜炎、異物感、流涙、羞明
200 3-12時間 角膜混濁(潰瘍)、眼瞼浮腫、
羞明
呼吸器 33-70 12時間-2日   鼻粘膜刺激
133-600 4-6時間 上気道:咽頭痛、鼻汁、嗄声
下気道:咳、発熱
1000-1500  4-6時間 気道浮腫、肺炎、ARDS

[発癌性]

IARCによる発がん性の分類:グループ1(ヒトへの発癌性について十分な証拠がある)
肺がん発生率は、第一次世界大戦での曝露者や第二次世界大戦中に工場で曝露した労働者では増加が認められている。

[ヒト致死量]

吸入ヒト;LCt50:1500 mg/分/ m3
吸入ヒト;LCLo:23ppm/10分
経皮ヒト;LDLo:60-64mg/kg/1時間
経皮ヒト;LD:4500mg/人(推定)
皮下ヒト;LDLo:5mg/kg
死亡者数:第一次世界大戦での曝露患者12万人中2~3%。イラン・イラク戦争では3~4%。
死因は通常、呼吸不全または骨髄抑制による。

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

硫黄マスタード 505-60-2
ppm [mg/m3]
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 0.060 0.020 0.010 0.0030 0.0010
(不快レベル) [0.40] [0.13] [0.067] [0.017] [0.0083]
AEGL 2 0.090 0.030 0.020 0.0040 0.0020
(障害レベル) [0.60] [0.20] [0.10] [0.025] [0.013]
AEGL 3 0.59 0.41 0.32 0.080 0.040
(致死レベル) [3.9] [2.7] [2.1] [0.53] [0.27]

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

中毒作用機序
1)皮膚びらん作用
2)細胞分裂の盛んな細胞、組織(基底細胞、粘膜上皮、骨髄幹細胞等)の傷害作用
3)発がん作用
作用機序:
・マスタードは生体内で反応性が高く、不安定なsulfonium化合物となり、蛋白質や核酸等の高分子化合物のSH基やNH2基をアルキル化する。
・DNAのアルキル化により架橋を形成し、二重鎖を破壊する。
・皮膚びらん作用や症状発現までの潜伏時間はアルキル化だけでは説明がつかない。作用機序について、いくつかの仮説があるが、いずれも十分には明らかにされていない。
体内動態

[吸収]

曝露されると3-5分の間に不可逆的にアルキル化が起こる。
液体または蒸気が接触すると皮膚から吸収される。
吸収速度(蒸気)1.4μg/cm2/分(21℃)、2.7μg/cm2/分(31℃)
(液体)2.2μg/cm2/分(16℃)、5.5μg/cm2/分(39℃)
経皮吸収されたうちの10%は吸収部位の脂肪組織に蓄積する。

[分布]

曝露数分後には組織や組織液中にマスタードは検出されなくなる。
(水疱中の液に眼や皮膚が接触しても毒作用を生じない)
剖検例での組織内濃度は以下の順である。
脂肪>皮膚(含皮下脂肪)>脳>腎>筋>肝>髄液>脾臓>肺

[排泄]

尿中に分解産物のチオジグリコールが検出されるが、特殊な検査で一般的な検査ではない。尿中のチオジグリコールの半減期(ヒト)は1.18日 である。
II.1.3.症状

概要

・ガスまたは液体に曝露されると、1時間~数時間後に接触部位に紅斑が起こり、水疱や浮腫を経て壊死に至る(症状が出るまで汚染に気づかないことがある)。皮膚に対する作用は天候により異なり、高温多湿状態では作用を増強させる。よって、腋窩や陰股部に症状が出やすい。症状の発現は24時間まで遅延することもある。眼はマスタード曝露のもっとも敏感な標的器官である。曝露されると角膜刺激症状が数分後から出ることもある。
眼:軽症  4~12時間後 流涙、掻痒感、灼熱感、異物感
中等症 3~6時間後  発赤、眼瞼腫脹、疼痛
重症  1~2時間後  著明な眼瞼腫脹、疼痛、角膜傷害
気道:軽症 6~24時間後 鼻汁、くしゃみ、鼻出血、嗄声、乾性咳嗽
重症 2~6時間後  重度の咳嗽、軽~重度の呼吸困難
皮膚:軽症 2~24時間後 紅斑、水疱
重症 2~12時間後 紅斑、水疱
・マスタード曝露のイラン軍兵士94人中の症状の頻度は、結膜炎(94%)、皮膚発赤(86%)、咳(86%)、色素沈着(82%)、霧視(80%)、羞明(72%)、水疱(69%)、呼吸困難(45%)の順に多かった。
・第一次大戦中のマスタード曝露による早期死亡の原因の大部分は呼吸不全によるとされる。死因は、呼吸不全、合併する呼吸器感染、敗血症によるものが多い(曝露4日以降)。致死量をこえる曝露の場合、急性の中毒症状(中枢神経系の興奮、痙攣、重度の気道傷害)が出現し、早期に死亡する。
詳細症状
(1)皮膚:蒸気曝露で通常I~II度、液体曝露ではIII度の熱傷を生じる。
会陰部、腋窩、頸部等温かく、湿潤な部位は障害を受けやすい。
はじめに紅斑が出現し、紅斑部位は知覚過敏、軽い灼熱感、浮腫を伴う。表皮下層の液状化壊死が進んで、浸出液が貯留し水疱を形成するが、水疱内浸出液は24時間後には凝固するため、ドレナージを妨げ、治癒を遅延させる。
組織学的変化は曝露後3-6時間で始まり、基底の有棘細胞(ケラチノサイト)の核濃縮、基底細胞の変性、細胞内・外の空胞形成、基底細胞層の壊死、表皮の剥離へと進行する。
反復曝露により皮膚が感作されることがある。
蕁麻疹を生じ、色素沈着、落屑を残す。
小児では、成人よりも皮膚障害が出現する時間が早く、症状もより重かった(イラン・イラク戦争時の曝露者に関する報告による)。
(2)眼:マスタードのコリン作用により、縮瞳を来す。臭気をわずかに感知する濃度でも1時間曝露すると結膜炎が起こる。通常30分~3時間(24時間以内)で症状が出現する。
角膜びらん、潰瘍を伴う眼病変は、その程度により、眼の異物感、刺激、流涙、羞明、霧視、眼瞼痙攣、眼瞼浮腫等の症状が数ヵ月以上にわたって軽快、再燃を繰り返すことがある。重症では失明に至る。
潰瘍、変質した障害部位の角膜炎が40年にもわたって再発することがある。
(3)呼吸器系:曝露量に応じて上気道から下気道深部へ傷害は進行する。鼻汁、鼻出血、くしゃみ、嗄声、乾性咳嗽、呼吸困難、咳。
咽頭炎の症状が1~2日間続いて気管支炎に移行する。
重症の場合は、肺水種、無気肺に二次感染として気管支肺炎を合併し、発熱、喀痰の増加等とともに低酸素血症が出現する。肺水腫に陥って死亡することもある。
(4)循環器系:A-Vブロック等の不整脈や心停止が出現することがある。
(5)精神・神経系:不眠、うつ状態、筋力低下、頭痛、めまい、倦怠感、食欲不振、嗜眠、痙攣、昏睡
(6)消化器系:高濃度曝露(1000 mg・分/ m3以上)、または汚染された食物の摂取や唾液の嚥下により生じる。経口曝露した場合は、嘔気、嘔吐、消化管出血、下痢、腹痛、消化管全体に浮腫が起き、穿孔することもある。一過性のトランスアミラーゼ、LDHの上昇を認めることがある。
(7)血液:高濃度曝露(100 mg・分/ m3以上)により骨髄抑制を生じる。
骨髄やリンパ組織の形成不全に基づく汎血球減少症やリンパ球減少症を起こす。
白血球増多の後、3~5日後から白血球が減少し、約10日後に最低値となる。白血球数500以下は予後不良である。
血小板減少性紫斑病となることもある。赤血球減少はまれである。
高濃度曝露によるがん化や骨髄抑制などから、radiation mimetic (放射線と紛らわしい)と言う表現がなされる。
予後
皮膚:熱傷に比べて治癒傾向が乏しく、水疱の治癒には数週間~数ヵ月を要する。二次感染がなければ通常、保存的治療で治癒する。皮膚病変は移植を要する例は少ない。
・長期予後調査
曝露8~13年後の調査で、傷害部位の神経学的異常(刺すような痛み、灼熱感、痒み等)、色素沈着等が認められた。
曝露16~20年後の40名への調査では、35名に皮膚の合併症が認められた。症状発現率は、そう痒感65%、色素沈着症55%、紅斑性丘疹42.5%、皮膚乾燥40%、多発性さくらんぼ状血管腫37.5%、萎縮27.5%、色素脱失症25%、灼熱感20%、脱毛10%、湿疹7.5%、肥厚性瘢痕2.5%であった。
眼:中等度までの角結膜炎やびらんは治癒するが、重症の場合は失明する。潰瘍、角膜炎が40年にもわたって再燃することがある。
・長期予後調査
曝露16~20年後の40名への調査では、39名に眼の合併症が認められた。発現率は、そう痒感42.5%、灼熱感37.5%、羞明30%、流涙27.5%、読字困難10%、充血10%、眼痛2.5%、異物感2.5%であった。また、慢性結膜炎が17.5%に認められ、角膜縁周囲色素沈着17.5%、血管蛇行15%、角膜壁厚減少15%、角膜縁虚血12.5%、角膜混濁10%、角膜血管新生7.5%、角膜上皮性欠損5%であった。
呼吸器系:軽症であれば1-2週間で症状はおさまるが、咳は1ヵ月以上に及ぶこともある。重症の場合は、多くは慢性気管支炎に移行し、肺気腫、肺線維症を合併する。マスタード生産工場の労働者に肺癌(扁平上皮癌、未分化癌が多い)の発生や、血液検査で染色体異常が多く認められた。
・長期予後調査
曝露16~20年後の40名(平均年齢43.8歳±9.8歳)への調査(イラン-イラク戦争でマスタードに曝露した退役軍人への調査)では、40名全員に呼吸器系症状が認められた。発現率は、咳100%、痰100%、呼吸困難85%、喀血60%、喘鳴95%、握雪音50%、狭窄音10%、軽度の低酸素血症67.5%、中等度の低酸素血症27.5%であった。マスタード生産工場の労働者に肺癌(扁平上皮癌、未分化癌が多い)の発生や、血液検査で染色体異常が多く認められた。
神経系症状:運動神経障害、感覚神経障害。
・長期予後調査
曝露16~20年後の40名への調査は、40名全員に神経系症状が認められた。運動神経障害の発現率は、左の脛骨神経37.5%、右の脛骨神経35%に、左の腓骨神経12.5%、右の腓骨神経20%であった。感覚神経障害の発現率は、左の脛骨神経75%、右の腓骨神経72.5%であった。
免疫:WBC、RBC、ヘマトクリット、IgM、補体C3の値の上昇
・長期予後調査
曝露16~20年後の40名(平均年齢43.8歳±9.8歳)の免疫等に関する検査値を健康成人35名(患者と同年代)と比較した調査では、WBC、RBC、ヘマトクリット、IgM、C3の値は、顕著に上昇していた。また、単球と CD3+リンパ球(成熟Tリンパ球総数)の割合(%)は顕著に増加しており、CD16+56陽性細胞(NK細胞)の割合(%)は顕著に低下していた。なお、WBC値の上昇は慢性気管支感染症によるものであり、赤血球数増加とヘマトクリット値の上昇は気管支障害により二次的に惹起された慢性低酸素症によるものと考えられている。
精神症状:イランのマスタード被害者の報告からは、癌化、呼吸障害、皮膚症状などの後遺症と相まって、長期的な精神的なケアに継続して配慮することが、クオリティオブライフの向上につながることが指摘されている。死亡率が低いマスタード曝露ではあるがより多くの被災者が長期間にわたって健康を害すると言う意味では、社会へのインパクトは大きい。
II.1.4.治療

概要

・織へ障害を起こす前に、迅速に除染することが重要である。チオ硫酸ナトリウムが低毒性のため、マスタードスカベンジャー(scavenger)としてヒトにも使用されるが、有効性は明らかではない。マスタードが細胞に到達した場合は、特異的解毒剤はない。治癒までに長時間を要し、他の同程度の物理的、化学的熱傷より重症化しやすく、感染しやすくなる。
・一般的な熱傷に比べ、痛みは激しい傾向にあり、より多くの鎮痛薬を使わなければならない傾向にある。また、体液の喪失は少ないので、過剰輸液にならないようにする。
・症状からの推定曝露量と対応
・体表面積の50%以上の紅斑が生じた場合は、LD50値の2倍量の曝露と推定される。
・曝露4~6時間以内に呼吸困難が生じた場合は致死量に曝露していると推定される。
・体表面の5%以上の曝露または眼痛、流涙など角膜障害が示唆される場合は入院が必要である。曝露した可能性がある場合は、潜伏期間があるので少なくとも8時間は経過観察が必要である。
・マスタードの治療に関しては様々な報告、研究があり、眼、皮膚、呼吸器に対する主な治療を以下に記す。
眼:人工涙液、1.5% 重炭酸ナトリウム、0.5% ジクロラミンT、抗生剤点眼、ステロイド点眼、散瞳薬、緑内障治療薬、免疫調整役、抗血管内皮増殖因子、コンタクトレンズ、瞼板縫合術、角膜切開、幹細胞・羊膜・角膜移植
皮膚:0.1% 臭化ベンザルコニウム、クロラミンT溶液、局所抗生剤、局所ステロイド薬、抗ヒスタミン薬・鎮痛薬の全身投与、デブリードメント、皮膚移植
呼吸器:N-アセチルシステイン、抗生剤、気管支拡張剤、吸入ステロイドと持続性β2刺激薬の組み合わせ、免疫抑制剤/抗コリン作動薬、ククミノイドプロテアーゼ阻害剤、インターフェロンサーファクタント療法
・イランのマスタード被害者の一部に対し、体内の硫黄マスタード除去目的で、血液透析と血液潅流に加えチオ硫酸塩および他のチオールの投与が行われたが、こうした治療はマスタード中毒の治療法として確立したものではない。また、被害者から採取された血液からは活性型マスタードが検出されておらず、血液透析と血液潅流には理論的根拠もないこと、さらに白血球減少症などの免疫機能が低下した患者では出血や二次感染の危険があることから、むしろ適用すべきではない。
詳細
*経皮の場合
基本、大量の水で洗浄する。事前に準備しているのであれば、0.5%次亜塩素酸ナトリウム水溶液を用いて除染しても良い。RSDL®やフーラーズアースによる拭き取り除染も有効である。
・局所療法は、熱傷に準じた治療を行う。
・強いかゆみを伴う紅斑:カラミンローションやステロイドクリームを塗布する。
・水疱:水疱皮膜は可能な限り保存する。破れた水疱は生理食塩水で洗浄し、イソジンゲルやシ バーサルファダイアジンクリーム(ゲーベンクリーム(R))を塗布。水疱中の液体はマスタードを含まないので、びらん作用はない。
・皮膚欠損が広範であれば植皮を要する。
・電解質やカロリーの維持は全身熱傷の治療に準じる。
・経口ステロイド剤、ビタミンEの投与、抗菌剤の塗布等
・皮膚病変には、NSAID軟膏とステロイド軟膏を混ぜたものが有効な可能性があるとの報告もある。

*眼に入った場合

2%重炭酸ナトリウムで十分に洗浄する。または大量の水で15分以上洗浄し、2.5%チオ硫酸ナトリウム液で中和する。曝露後10分以内が望ましい。
・市販の点眼剤でも刺激、結膜炎を軽減する
・結膜炎:抗生物質軟膏、ステロイド軟膏の塗布
・眼痛:鎮痛剤の全身投与
局所麻酔剤の使用は好ましくない。
・羞明、眼瞼痙攣:1%硫酸アトロピンの点眼(1日数回)
羞明が強い場合は暗い部屋に収容するかサングラスを使用。
眼帯は圧迫により眼瞼を癒着することがあるので使用しない。
・角膜混濁:角膜移植

*吸入の場合

新鮮な空気下に移送する。
曝露後15分以内であれば、2.5%チオ硫酸ナトリウム液のネブライザー投与が中和に効果がある可能性がある。
呼吸循環管理
・呼吸器症状が早期から出現する症例は重症であるので、気管挿管・呼吸管理を要する。
・上気道の刺激症状には吸入器による加湿、鎮咳剤の投与
・十分な補液
・化学性肺炎、二次感染対策
・骨髄抑制対策:G-CSF、血液幹細胞移植
・ステロイド剤投与は、肺病変の進行を抑制する。

*経口の場合

・催吐:禁忌
・希釈:牛乳または水を120-240mL(15mL/kg以下)投与。
・胃洗浄:消化管出血、穿孔の危険性を考慮して判断する。
痙攣対策をとった上で施行する。
・活性炭の投与:有効性は不明。内視鏡検査の妨げになる。
・塩類下剤の投与:有効性は不明
II.2.ルイサイト(L)
概要

ルイサイト (Lewisite)は、アダムサイトなどと同じく有機ヒ素化合物であり、びらん剤として用いられる。ルイサイトは即効性があるため、遅効性のマスタードと組み合わせてマスタード-ルイサイトとして使うことがある。
旧日本陸軍は、1931年(昭和6年)に「きい二号」として武器として採用した。また、マスタードにルイサイトを1:1の割合で混合し、化学弾頭に充填している。この組み合わせは、当時ソビエトを仮想敵国としていた旧陸軍が、寒冷地使用を考えた場合にマスタード単独だと凍るので、ルイサイトを凍らない様にいわば、凝固点降下剤として混ぜたとされる。一方、旧海軍では「三号特薬乙」と呼称した。
第一次世界大戦前にドイツでも開発されていたが、1918年に米軍のルイス大尉が合成法を確立したので、「ルイサイト」と呼ばれている。1925年ジュネーブ議定書により戦時使用禁止が決議された(日本は1970年に批准)。
ルイサイトは、マスタードよりも皮膚からの吸収はよいが、毒性はほぼ同等である。ルイサイトは、マスタードと異なり曝露直後から症状があるので、何らかの対処がされるが、吸収されるとヒ素中毒に陥る。対症療法が主となるが、ヒ素中毒に対しては特異的解毒剤(British Anti-Lewisite: BAL)の投与を行う。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

II.2.1.物性

褐色~黒色の油性液体。純品は無色。刺激のある果実臭ないしゼラニウム臭、西洋ワサビ臭を有する。マスタードより揮発しやすい。
[構造式]

[分子量]207.31
[比重]1.888(20℃/4℃)
[沸点]190℃
[凝固点]-13℃
[蒸気圧]

0.1160 hPa(≒0.087 mmHg)(0℃)、0.5266 hPa(≒0.395 mmHg)(20℃)

[蒸気密度]7.15(空気=1)
[揮発度]4480 mg/m3(20℃)
[溶解性]水、希鉱酸に不溶、有機溶剤に可溶。
[反応性]

水分で速やかに加水分解されるため、湿度が高い場合は蒸気を有効濃度に保つのは難しい。強アルカリで加水分解され、びらん作用をもたない物質となる。加熱により分解し、有毒ガスが発生する。

[環境汚染の持続時間]

大気中:蒸気は光化学的に分解される。半減期 推定1.2日
水中:水分で速やかに加水分解される。
土壌中:土壌表面の部分は蒸発する。
II.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態

ルイサイトは、マスタードよりも皮膚からの吸収はよいが、毒性はほぼ同等である。吸収されるとヒ素中毒に陥る。

毒性

[ヒト中毒量]

眼:半数不能量;300 mg・分/m3
0.001 mLでも穿孔や失明を起こすことがある。
経皮:0.5 mLの付着で全身症状を生じ、2 mLでは致死的となる。

[ヒト致死量]

吸入;半数致死量(LCt50):1200-1500 mg・分/ m3 、(ガス)1500 mg・分/ m3
吸入;最小致死量(LCLo):6 ppm/30分

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

ルイサイト1(541-25-3)(ルイサイト2(40334-69-8)
およびルイサイト3(40334-70-1)の混合物を含む)
mg/m3(注:ppmではない)
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 NR NR NR NR NR
(不快レベル)
AEGL 2 1.3 0.47 0.25 0.070 0.037
(障害レベル)
AEGL 3 3.9 1.4 0.74 0.21 0.11

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

中毒作用機序
1)皮膚びらん作用
2)毛細血管透過性亢進作用
3)ヒ素中毒
正確な作用機序は明らかではないが、およそ以下のように考えられている。ルイサイトは3価のヒ素を有し、このヒ素は酵素や蛋白のSH(スルフヒドリル)基に結合する。その結果、ピルビン酸オキシダーゼ、アルコール脱水素酵素、コハク酸酸化酵素等多くのSH基を含む酵素やグルタチオンの機能が阻害され、細胞死から組織障害を生じる。特に表皮の正常機能と形態維持に関与するピルビン酸代謝系の障害により皮膚病変を生じさせる。
体内動態

[吸収]

吸入、皮膚(3~5分以内)から吸収される。

[分布]

ヒ素は主として肝、腎、肺に、少量は筋肉、神経組織に分布する。ケラチン質はSH基を多く含むので、ヒ素は毛髪、爪から高濃度で検出される。水疱中の液はびらん作用はないが、ヒ素を0.8~1.3 mg/mL含有する。ヒ素の分布容量:数L/kg

[排泄]

ルイサイトをLD10、LD40量を皮下投与した場合、ヒ素の血中半減期は55-75時間、血中クリアランスは120 mL/hr/kgで、肝、肺、腎の組織濃度が血中の数倍と高かった。BALを12時間にわたって最大量投与したところ脳、肝のヒ素濃度は65~89%低下した。脳、脊髄のヒ素総量はBAL投与により2/3以上低下した。ヒ素は、ヒトでは主として尿中に排泄されるが、尿、糞便、汗、母乳、毛髪、皮膚、肺からも排泄される。
II.2.3.症状

概要

・びらん作用はマスタードと類似しているが、マスタードと異なり曝露直後に症状が出現する。眼に入ったときはすぐに痛みを生じ、マスタードより激痛を伴う。吸収されるとヒ素中毒に陥る。
・曝露するとまずびらん剤として作用し、続いて呼吸器系への刺激作用、さらに全身のヒ素中毒症状(肝、腎障害)が出現する。大量に曝露すると毛細血管透過性亢進、血液濃縮、血圧低下により”ルイサイトショック”を起こす。
・皮膚に0.5 mL付着しただけでも重篤な全身症状を生じ、2 mLでは致死率が高い。マスタードより腐食性が強い。
・臭気を感知する濃度以下でも、眼や粘膜を刺激する。マスタードより揮発性が高いので、より広範囲に影響する。ヒトが気体に曝露した中毒例はこれまでにない。
詳細症状
(1)皮膚:液体に触れると直後に刺すような、焼けるような感覚。2,3分以内に激しい痛み。30分以内に紅斑。
痛みを伴う水疱の出現は数時間以内(12時間以上遅れることもある)。
曝露5分後には腐食性の化学熱傷と同様に、死んだ上皮が灰色となる。
水疱の有無に関わらず、痒みや刺激症状が24時間は続き、48~72時間後に軽減する。熱傷部位が広範で深い場合は、組織の壊死(壊疸)に陥り、痂皮を形成する。
(2)眼:液体が入ると直後に刺すような、焼けるような感覚。流涙。眼瞼痙攣。早期から縮瞳。2,3時間で結膜や眼瞼の浮腫、虹彩炎、角膜のかすみ。1分以内に洗浄しないと失明することもある。
ルイサイトの霧のような微粒子が眼に入った場合は、一過性の角膜上皮のびらんが生じる。
(3)呼吸器系:マスタード曝露と同様の症状がみられる。泡沫状または血性痰を伴う痙性咳、呼吸困難、胸痛、肺水腫を来たす。
(4)循環器系:血管透過性亢進により大量の体液、電解質が漏出し、循環血液量の減少をきたす。ヒ素の血管拡張作用も加わって、重篤な場合はショックを来たす(動物で報告されている)。
(5)神経系:脱力感、不穏(動物で報告されている)
(6)消化器系:下痢(動物で報告されている)
(7)肝症状:巣状肝壊死、胆管粘膜壊死
(8)泌尿器系:腎障害
(9)血液:溶血性貧血はヒ素中毒で起こるが、ルイサイトでの報告はない。動物実験のルイサイトショックで真性または溶血性貧血が報告されている。
(10)その他:体温低下(動物で報告されている)
毛髪、尿、血中、胃内容物のヒ素濃度の測定は、曝露が明らかでない場合は、診断に有用である。
予後
皮膚:皮膚病変はマスタードの場合より治りやすい(同程度の熱傷よりはやや長い)
Bowen’s病(表皮内扁平上皮癌)を誘発すると考えられる。
吸入:慢性呼吸器疾患との因果関係が報告されている。
眼: 重症の場合は治癒するまでに約6週間かかる。
II.2.4.治療

概要

症状が出現した患者は、全ての症状が十分回復するまで特定の適切な施設で治療する。
次に該当する場合は全身管理(呼吸・循環機能、ショック対策、BALの筋注等)が必要となる。

・呼吸困難や泡状痰を伴う咳が出現し、肺水腫の徴候がみられる場合
・手のひら大以上の面積が接触またはやけどし、15分以内に洗浄されなかった場合
・15分以内に除染を行った場合でも、体表の5%以上が液体のルイサイトに曝露し、30分以内に皮膚の灰色化または白色化の徴候や紅斑がみられる場合
詳細
*経皮の場合
(1)基本的処置
直ちに曝露部位を大量の水で洗浄する。
RSDL®では分解されるとはメーカーは保証していないので注意する。
(2)特異的治療
BAL軟膏塗布:吸収を阻止する。
日本および海外で製造されていない。
水疱が出現する前にBAL軟膏を塗布し、指で擦り込み、5分間放置後、水で洗い流す。
(軟膏塗布により1時間位で一時的に刺激感、痒み、丘疹が出現することがある)
参考)BAL軟膏の作成例(大阪府立急性期総合医療センター)
[処方]
薬品名
2,3-ジメルカプト-1-プロパノール※ 50g
流動パラフィン 25g
吸水軟膏 450g
全量 500g
[製法]
① 2,3-ジメルカプト-1-プロパノールと流動パラフィンを乳鉢に入れ、乳棒でよく混和する。
② ①に吸水軟膏を加えてよく混和し全質均等とする。
※ ドラフト内で作業する。
※ 2,3-ジメルカプト-1-プロパノール(ジメルカプロール)
試薬一級 東京化成(25g/瓶)
分子式:SHCH2CH(SH)CH2OH   分子量:124.23
メルカプタン様の不快な臭いがある。
メタノールまたはエタノール(99.5)と混和する。
ラッカセイ油にやや溶けやすく、水にやや溶けにくい。
※ バル注(100㎎/1ml/A)を使用すると、10g中に1gでは10A(10ml)となり、軟膏にならないので使用は断念した。
[貯法]
密封容器(不快臭あり) 冷暗所にて保存
BALの投与:BALの筋注
製品名:バル(R)筋注100 mg「第一三共」;第一三共
投与法:最大3 mg/kgを最初の2日間は4時間ごとに、3日目は6時間ごとに、以降10日目まで12時間ごとに筋注。
5 mg/kgを超えると50%の患者に副作用が出現する。副作用が極度に重篤な場合や遷延する場合を除き、投与コースは中止しない。
参考)バル(R)筋注100 mg「第一三共」のヒ素中毒に対する用法・用量
・ジメルカプロールとして、通常成人1回2.5 mg/kgを第1日目は6時間間隔で4回筋注する。第2日目以降6日間は毎日1回2.5 mg/kgを筋注する。
・重症緊急を要する中毒症状を呈する場合、1回2.5 mg/kgを最初の2日間は4時間ごとに1日6回、3日目には1日4回、以降、10日間あるいは回復するまで毎日2回筋注する。
・年齢、症状により適宜増減する。
[過量投与の症状]
・嘔気・嘔吐、頭痛、口唇・口腔・咽頭・眼の灼熱感、流涙・流涎、筋肉・胸部の圧迫感、振戦、血圧上昇など、ときに昏睡、痙攣を起こすことがある。(症状は通常30-90分で改善する)
・エピネフリン、エフェドリン、抗ヒスタミン剤などの投与が症状を緩解するとの報告がある。
参考)BAL(British anti-lewisite,ジメルカプロール)の作用機序
・BALは金属との親和力が強く、酵素蛋白のSH基とヒ素の結合を阻害。
・既に結合している場合はヒ素と結合して体外への排泄を促進し、 酵素の活性を賦活する。
*眼に曝露した場合
(1)基本的処置
直ちに曝露部位を大量の水または生理食塩水で洗浄する。
医療機関では眼の洗浄に生理食塩水を使用する。
(2)特異的治療
BAL点眼:吸収を阻止する。
日本および海外で製造されていない。
植物油中5~10%
必要に応じて「*経皮の場合」に準じて行う。
*吸入の場合
(1)基本的処置
新鮮な空気下に避難する。
(2)特異的治療
必要に応じて「*経皮の場合」に準じて行う。
*経口摂取の場合
(1)基本的処置
・催吐:禁忌
・希釈:牛乳または水を120-240 mL(15 mL/kg以下)投与。
・胃洗浄:早期に施行
痙攣対策をとった上で施行。
・活性炭・塩類下剤の投与:有効性は不明。
(2)特異的治療
必要に応じて「*経皮の場合」に準じて行う。
II.3.ナイトロジェンマスタード(HN-1, HN-2, HN-3)
概要

マスタードは、硫黄由来の臭気を持ち、水に溶けにくく油に溶けやすい、毒性が強い、という3点から、化学剤としては取り扱いにくかった。そのため、各国でマスタードの改良が試みられ、アメリカとドイツでほぼ同時に完成したのが、硫黄を窒素に変えたナイトロジェンマスタードであった。化学剤としてはHN-1~3があるが、HN-2は不安定な物質で重要視されていない。HN-1は温度により揮発度が異なる。米軍では化学剤として使用したことはないが、保有はしていた。HN-2の塩酸塩(塩酸ナイトロジェンマスタード-N-オキシド)は医薬品(抗腫瘍薬、ナイトロミン(R))として用いられていた。HN-3は蒸気圧、揮発度ともに低く、酷暑時でも有効な蒸気濃度にならず、実戦で使われたことはない。1925年ジュネーブ議定書により戦時使用禁止が決議された(日本は1970年に批准)。特異的解毒剤はなく、対症療法が主となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

II.3.1.HN-1:bis(2-Chloroethyl)ethylamine
II.3.1.1.物性

わずかに魚臭、アミン臭を有する液体。暗黒色でかび臭を有する。
[構造式]

[分子量]170.08
[比重]1.0861(23℃/4℃)
[沸点]

194℃(計算値、分解する)
66℃(3mmHg)、85.5℃(12mmHg)

[融点]-34℃
[蒸気圧]0.24mmHg(25℃)
[相対蒸気密度]5.9(空気=1)
[揮発度]

127mg/m3(-10℃)、308mg/m3 (0℃)、1520mg/m3 (20℃)、3100mg/m3 (30℃)

[引火性]可燃性はあるが爆発性は高くない。
[溶解性]

水にほとんど不溶。多くの有機溶剤と混和しうる。

[反応性]

加熱により分解し、有毒な塩素ガス、窒素酸化物を生成する。
65℃で鋼をわずかに腐食する。金属と反応して可燃性の水素ガスを生じる。加熱により、爆発性を持つ。

[環境汚染の持続時間]
データなし

II.3.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

[ヒト中毒量]

眼ヒト半数不能量(ICt50):200mg・分/m3

[ヒト致死量]

ヒトの最小致死量は明らかではない。
吸入ヒト半数致死量(LCt50):1500mg・分/m3

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 暫定値

ナイトロジェンマスタード HN-1 CAS #: 538-07-8
mg/m3(注:ppmではない)
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 NR NR NR NR NR
(不快レベル)
AEGL 2 0.13 0.044 0.022 0.0056 0.0028
(障害レベル)
AEGL 3 2.2 0.74 0.37 0.093 0.047
(致死レベル)

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[発癌性]ヒトでおそらく発がん性を示す。

中毒作用機序
ナイトロジェンマスタードは、クロルエチルアミン類で蛋白質や核酸をアルキル化する。DNA、特にグアニンのアルキル化により二重鎖が破壊され、DNA合成が阻害される。
体内動態

[吸収]

経皮、吸入、経口摂取による

[代謝]

解毒せず、蓄積する
II.3.1.3.症状

概要

中毒症状に関する情報は少ない。眼、皮膚、粘膜への刺激がある。マスタードと類似の眼に対する刺激があるが、出現時間は早く、傷害はより重い。 (眼傷害の発現は数時間-40年まで遅延することがある。アルキル化剤としての性質により皮膚に水疱を生じる。
詳細症状
(1)呼吸器系:crackleを伴う呼吸困難。気管支肺炎(24時間以後に発症することがある)。大量曝露では、肺水腫(発症は曝露後24-72時間遅れることがある)
(2)神経系:類似物質の大量曝露では、振戦、運動不能、運動失調、痙攣が出現。
(3)消化器系:吸入、服用で嘔気、嘔吐
激しい下痢(出血を伴うこともある)
服用した場合は、消化管の刺激または熱傷による症状。
(4)血液:造血障害
(5)皮膚:刺激症状、水疱
(6)眼:強い刺激、傷害
II.3.1.4.治療

概要

特異的解毒剤はなく、迅速な除染が傷害を軽減する唯一の方法である。化学的に類似のマスタードの治療に準じる。チオ硫酸ナトリウムが低毒性のため、マスタードスカベンジャー (scavenger)としてヒトにも使用されるが、有効性は明らかではない。曝露した可能性がある場合は、潜伏期間があるので少なくとも8時間は経過観察が必要である。体表面の5%以上の曝露または眼痛、流涙など角膜障害が示唆される場合は入院が必要である。呼吸・循環機能の維持・管理を行う。
詳細
*経皮の場合
基本、大量の水で洗浄する。
・熱傷創に準じた治療を行う。
・強いかゆみを伴う紅斑:カラミンローションやステロイドクリームの塗布
・水疱:水疱皮膜は可能な限り保存する。破れた水疱は生理食塩水で洗浄し、イソジンゲルやシルバーサルファダイアジンクリーム(ゲーベンクリーム(R))を塗布
・皮膚欠損が広範であれば植皮を要する。
*眼に入った場合
大量の水で15分以上洗浄する。洗浄後も刺激感や疼痛、腫脹、流涙、羞明等の症状が続く場合は眼科的診察が必要。
・抗生物質軟膏、ステロイド軟膏の塗布
・1%硫酸アトロピンの点眼
コンタクトレンズ、薄膜または全層の角膜移植は遅延性の角膜炎による
視力の改善に効果があるかもしれない。
*吸入の場合
新鮮な空気下に移送する。
・呼吸器症状が早期から出現する症例は重症であるので、気管挿管・呼吸管理を要する。
・上気道の刺激症状には吸入気の加湿、鎮咳剤の投与
・化学性肺炎、二次感染対策
*経口の場合
催吐:禁忌
希釈:牛乳または水を120-240mL(15mL/kg以下)投与する。
胃洗浄:消化管出血、穿孔の危険性を考慮して判断する。痙攣対策をとった上で施行する。
活性炭の投与:有効性は不明。むしろ内視鏡検査の妨げになる。
塩類下剤の投与:HN-1,2に関する有効性は不明である。
体外排泄促進法:血液浄化療法の有効性に関する報告はない。
十分な補液。痙攣対策。
骨髄抑制対策:G-CSF、血液幹細胞移植
II.3.2.HN-2:bis(2-Chloroethyl)methylamine
II.3.2.1物性

無色~微黄色をおびた油状の液体。ニンニク、にしん、マスタード臭を有する。
低濃度ではソフトな石鹸臭、高濃度では果実臭(US Army report)
[構造式]

[分子量]156.07、192.53(塩酸塩)
[比重]1.118(25℃/4℃)
[沸点]

87℃(18mmHg)、75℃(10mmHg)、64℃(5mmHg)、59℃(2mmHg)

[融点]-60℃
[蒸気圧]65mmHg(25℃)
[蒸気密度]空気より重い
[揮発度]3.581mg/L(25℃)
[引火性]可燃性
[溶解性]

水に非常にわずかに溶ける。
ジメチルホルムアミド、二硫化炭素、四塩化炭素、他の有機溶剤、油類と混和しうる。

[反応性]加熱により、爆発性を持つ。
[環境汚染の持続時間]

大気中:HN-2蒸気は光化学的に分解される。半減期 推定2日
土壌中:乾いた土壌からは蒸発し、光化学的に分解される。
湿った土壌中では、水中と同様に加水分解される。
水中:速やかに加水分解される。methyldiethanolamineとなる。
半減期 11時間(25℃)
II.3.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

[ヒト中毒量]

眼ヒト半数不能量(ICt50):100mg・分/m3
経皮ヒト半数不能量ICt50):(マスク使用時)2500-9000mg・分/m3
経口ヒト中毒量:ボランティアに4-6mg/日を1回経口投与後、嘔気、嘔吐、頭痛、下痢が24時間続いた。

[ヒト致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):3000mg・分/m3
静注ヒト半数致死量(LD50):推定1mg/kg

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 暫定値

ナイトロジェンマスタード HN-2 CAS #: 51-75-2
mg/m3(注:ppmではない)
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 NR NR NR NR NR
(不快レベル)
AEGL 2 0.13 0.044 0.022 0.0056 0.0028
(障害レベル)
AEGL 3 2.2 0.74 0.37 0.093 0.047
(致死レベル)

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[刺激性]

眼刺激性(ウサギ 400μg):強い刺激性あり
皮膚腐食性/刺激性:強力なびらん作用があり、腐食性を有する。

[発癌性]

IARCの分類:2A(ヒトに対して発癌性を示す可能性が非常に高い)(1987)
中毒作用機序
ナイトロジェンマスタードは、クロルエチルアミン類で蛋白質や核酸をアルキル化する。DNA、特にグアニンのアルキル化により二重鎖が破壊され、DNA合成が阻害される。
体内動態

[吸収]

イヌに3mg/kg静注後、血中から速やかに消失した。

[分布]

イヌに3mg/kg静注した場合、組織中濃度は低く、最も高いのは骨髄であった。

[代謝]

生体内でグアニン基やSH基と反応する。

[排泄]

イヌに3mg/kg静注した場合、ごくわずかな0.01%は尿中に排泄された。
II.3.2.3.症状

概要

マスタードと類似の眼に対する刺激があるが、出現時間は早く、傷害はより重い。
・吸入による症状は4-6時間後に出現する。
・低濃度の慢性曝露により感作されていると、症状がより早く出現する。
・肺水種、壊死した組織片による物理的窒息、二次感染により2,3日後に死亡することがある。
・第一次世界大戦でナイトロジェンマスタード使用による致死率は2%。患者の98%は30日以上の入院を要し、予後は視力障害、永久的失明、皮膚瘢痕、気管支狭窄、慢性気管支炎、食欲不振、ナイトロジェンマスタードに対する過敏反応等が認められた。
詳細症状
(1)循環器系:高濃度ではショック、AVブロック、心停止
(2)呼吸器系:咽頭痛、鼻汁、嗄声、失声、乾性咳、crackleを伴う呼吸困難
大量曝露では、肺水腫(発症は曝露後24-72時間遅れることがある)
(3)神経系:食欲不振、脱力、嗜眠、頭痛
高濃度では中枢神経抑制、痙攣
(4)消化器系:嘔気、嘔吐、腹痛、血性下痢
(5)血液:骨髄抑制、貧血、白血球減少
(6)眼:流涙、刺激症状は20分以内に出現し、ピークは8-10時間まで。
眼瞼や眼周囲粘膜の水疱、痛み、縮瞳、眼瞼痙攣、羞明、まれに失明
(7)皮膚:紅斑、強い痒み、膨疹、壊死、色素沈着、接触性皮膚炎、脱毛
(8)耳:耳鳴、聴覚消失
(9)その他:発熱、精子形成障害、無月経、月経異常
II.3.2.4.治療

HN-1のII.3.1.4項を参照

II.3.3.HN-3:tris(2-Chloroethyl)amine
II.3.3.1.物性

微黄色をおびた液体。わずかに魚臭+石鹸臭。純品は無臭。
[構造式]

[分子量]204.53
[比重]1.2347(25℃/4℃)
[沸点]144℃(15mmHg)
[融点]-4℃
[相対蒸気密度]7.1(=空気1)
[揮発度]0.120mg/L(25℃)
[引火性]

可燃性はあるが、容易には爆発しない。

[溶解性]

水にわずかに溶ける。ジメチルホルムアミド、二硫化炭素、四塩化
炭素、他の有機溶剤、油類と混和しうる。
アルコール、エーテル、ベンゼンに可溶。

[反応性]

塩素処理により分解される。
サラシ粉やクロラミンにより分解され、低毒性になる。
弱アルカリ下(pH=8)では24時間以内に90-95%分解される。
り分解し、有毒な塩素ガス、窒素酸化物を生成する。
金属とは反応しない。

[環境汚染の持続時間]

大気中:速やかに光化学的に分解される。半減期 5時間
土壌中:主に加水分解される(特に弱アルカリ下)と推定される。
水中:主に加水分解される(特に弱アルカリ下)と推定される。
硫黄マスタードの3倍持続性がある。
II.3.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

[ヒト中毒量]

眼ヒト半数不能量(ICt50):200mg・分/m3
経皮ヒト半数不能量(ICt50):2500mg・分/m3
2-6mg服用後、嘔気、嘔吐が出現。
最小中毒量(白血球減少症が出現):塩酸塩で214μg/kg

[ヒト致死量]

ヒトの最小致死量は不明
吸入ヒト半数致死量(LC50):1000mg/m3
経皮ヒト半数致死量(LD50):10mg/kg

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]暫定値

ナイトロジェンマスタード HN-3 CAS #: 555-77-1
mg/m3(注:ppmではない)
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 NR NR NR NR NR
(不快レベル)
AEGL 2 0.13 0.044 0.022 0.0056 0.0028
(障害レベル)
AEGL 3 2.2 0.74 0.37 0.093 0.047
(致死レベル)

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[刺激性]

眼刺激性:強い刺激性あり

[発癌性]

ヒトの発癌性に関する報告なし
中毒作用機序
ナイトロジェンマスタードは、クロルエチルアミン類で蛋白質や核酸をアルキル化する。DNA、特にグアニンのアルキル化により二重鎖が破壊され、DNA合成が阻害される。
体内動態

[吸収]

皮膚、吸入、経口摂取により吸収される。

[排泄]

母乳への移行:報告なし
II.3.3.3.症状

概要

マスタードと類似の眼に対する刺激があるが、出現時間は早く、傷害はより重い。
・眼の刺激症状は、皮膚や呼吸器の刺激症状が出現しない濃度でも起こりうる。
詳細症状
(1)循環器系:
(2)呼吸器系:吸入により、はじめに鼻、咽頭の刺激症状が出現。
咳、嗄声、呼吸困難、湿性ラ音、気管支肺炎。
大量曝露では、肺水腫(発症は曝露後24-72時間遅れることがある)
(3)神経系:痙攣(実験動物のみ)
(4)消化器系:服用により食道、消化管の刺激症状。
嘔気、嘔吐。
吸収されると細胞分裂を抑制し、激しい血性下痢、消化管の壊死性傷害。
(5)血液:骨髄抑制
(6)眼:結膜炎
(7)皮膚:紅斑、痒み、刺激、水疱形成、熱傷、脱毛
(8)その他:精子形成障害、月経異常
II.3.3.4.治療

HN-1のII.3.1.4項を参照

II.4.ホスゲンオキシム(CX)
概要

ホスゲンオキシム(Phosgene oxime)は強い腐食性を持つびらん剤である。一般的には、びらん剤(blister agent)とされるが、水疱(blister)は作らず、urticant、nettle agent(湿疹剤) とも言われる。ハロゲン化オキシム剤の中で最も毒性が強く、マスタードガスよりも皮膚への刺激性が高いと言われている。 実際に戦争で使われたことがないため人体に対する作用は不明な点が多く、動物実験による効果から推測されているだけである。
曝露直後にルイサイトは疼痛と水疱、ホスゲンオキシムは疼痛が接触局所に出現し、マスタードガスとナイトロジェンマスタードでは遅れて疼痛と水疱が出現する。ホスゲンオキシム白色の結晶性粉末で、不快な強い刺激臭がある。軍用品の純度では黄~褐色の液体である。暴露直後に痛みが出現し、速やかに組織の壊死を起こす。他の毒ガスより衣服やゴムに速やかに浸透する。ブチルゴムですら浸透する。とはいえ、発災現場での現実的な対応には、通常の化学防護装備で対応する。その際、皮膚の刺激症状が出るようであれば、即座に手袋やブーツを交換する。特異的解毒剤はなく、対症療法が主となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

II.4.1.物性

白色の結晶性粉末。不快な強い刺激臭。軍用品の純度では黄~褐色の液体。
[構造式]

[分子量]113.93
[沸点]128℃
[融点]35~40℃(室温で液体化しうる)
[蒸気圧]

11.2mmHg(25℃)(固体)、13mmHg(40℃)(液体)

[揮発度]1800mg/m3(20℃)
[溶解性]

水に溶ける(70%)、多くの有機溶剤(アルコール、エーテル、ベンゼン)に可溶。

[反応性]

アルカリ水溶液で速やかに加水分解する。多くの金属を腐食する。

[環境汚染の持続時間]

土壌中で分解するのに数日から数週間かかる他のびらん剤と異なり、持続性は低い。乾燥した土壌中では2時間で分解され、水分を多く含んだ土壌だとさらに早く分解する。
II.4.2.毒性、中毒作用機序、体内動態

基本的に極めて毒性が高い。作用機序は不明である。

毒性

[ヒト中毒量]

吸入最小作用量(Ct):約300mg・min/m3(蒸気、エアロゾル)
半数不能量(蒸気曝露でおこる眼障害による):300mg・min/m3以下

[ヒト致死量]

吸入半数致死量(LCt50):1500~2000mg・min/m3

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 暫定値

ホスゲンオキシム CAS : 1794-86-1
mg/m3 (注:ppmではない)
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 0.17 0.056 0.028 0.0069 0.0035
(不快レベル)
AEGL 2 0.50 0.17 0.083 0.021 0.010
(障害レベル)
AEGL 3 36 25 13 3.1 1.6
(致死レベル)

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[刺激性]

皮膚刺激性:強い刺激性あり
眼刺激性:強い刺激性あり
中毒作用機序
作用機序は明らかではない。SH基及びNH2基と反応する。接触した部位の毛細血管組織に強い作用を生じる。人体の表面に付着すると加水分解によって塩酸とアルデヒド基に分離し、塩酸が皮膚や粘膜を焼き、アルデヒド基がタンパク質の側鎖のアミノ基と反応を起こし細胞を壊死させるとも言われる。
体内動態

[吸収]

皮膚から数秒以内に完全に吸収される。
II.4.3.症状

概要

・曝露直後に痛みが出現し、速やかに組織の壊死を起こす。皮膚、眼、呼吸器が傷害され、他のびらん剤より重い組織障害を生じる。
・皮膚病変は一見じんましん様で強酸による損傷に類似している。びらん剤ではあるが、びらんは生じない。皮膚傷害は治癒するのに、1~6ヶ月を要する。
・ホスゲンオキシムは曝露直後に痛みが出現し、速やかに皮膚(紅班、壊死が特徴的)や眼(結膜炎が必発症状)が傷害され、水疱はできないことから、他のびらん剤と鑑別できる。
詳細症状
(1)皮膚
高濃度で強い刺激性があり、速やかに壊死を起こす。
接触部位は、数秒以内に痛みを生じ、30秒以内に白色に変性し、その周囲は強い痛みを伴う紅斑となり、15分以内にじんましんを生じる。24時間後には白変した部分は褐色化し、落屑、壊死、化膿性滲出液等を生じる。水疱は作らない。その後、痂皮を形成し、約3週間で痂皮は脱落する。かゆみと痛みは、皮膚傷害が治癒するまで続くことがある。
(2)眼
低濃度でも強い刺激性がある。痛み、結膜炎、角膜炎を起こす。接触により永久的な角膜障害を残し、失明に至る。
(3)呼吸器系
低濃度でも強い刺激性があり、上気道の刺激症状が出現する。吸入および経皮曝露後数時間で肺水腫を生じる。肺水腫に伴い、壊死性細気管支炎から肺血栓症に至ることがある。
(4)消化器系
出血性炎症を生じることがある。
II.4.4.治療

概要

特異的解毒剤はなく、迅速な除染が傷害を軽減する唯一の方法である。理想的には、曝露後直ちに、(数秒以内)に除染するのが好ましい。化学的に類似の強酸などの腐食性物質の治療に準ずる、呼吸・循環機能の維持管理に努める。皮膚や衣服がホスゲンオキシムによって汚染されている場合、直接、若しくは気化して二次被害を起こすので、ABCの呼吸循環管理を行いつつも、汚染管理は徹底する。医療機関内に汚染を持ち込まないために、除染を行ってから院内に搬入する。皮膚、眼の刺激症状が無ければ、剤への曝露はないものと考えることができる。

詳細
*経皮の場合
基本、大量の水と石鹸で洗浄する。若しくはRSDLで除染後、大量の水で洗浄する。ただし、RSDLの製造者はホスゲンオキシムを除染できるとはしていない。皮膚病変が広範囲にわたる場合には、バイブラバスなどの治療用泡風呂で1日2-3回入浴させる。
熱傷に準じた治療を行う。
強いかゆみを伴う紅斑の場合カラミンローションやステロイドクリームを塗布する。
皮膚欠損が広範であれば植皮を要する。皮膚曝露範囲が広いようであれば、熱傷治療施設への転送が必要となる。
*眼に入った場合
大量の水で5-10分洗浄する。癒着するので、眼帯は着けない。結膜炎に対して、硫酸アトロピンなどの散瞳薬、抗菌薬眼軟膏、ワセリンなどで加療する。羞明がある場合にはサングラスをかけさせる。
*吸入の場合
新鮮な空気下に移送し、呼吸管理を行う。
*経口の場合
腐食性物質なので催吐は禁忌である。嘔気、嘔吐には制吐剤で対処する。
III.血液剤
III.1.シアン化水素(AC)
概要

シアン化水素は、塩化シアンと同じく、血液剤に分類される。気体のシアン化水素は青酸ガスといい、液体は液化青酸という。水溶液は弱酸性を示し、シアン化水素酸と呼ばれる。気体、液体、水溶液のいずれについても、慣習的に青酸(せいさん)と呼ばれる。この語は紺青に由来する。チトクロームオキシダーゼと結合し、細胞の酸素利用を阻害する。無色でかすかにビターアーモンド(苦扁桃)臭のある、非常に揮発しやすい可燃性の液体または気体。空気より軽く揮発性が高いため野外では速やかに拡散し、致死濃度に達しにくいため、化学兵器としてはあまり有用ではないとされる。化学兵器としてのこの欠点を克服するために空気より重い塩化シアンが製造された。第一次世界大戦中の1916年に連合軍(仏、英)がドイツ軍に対して小規模に使用した。イラン・イラク戦争で、イラク軍はイラン軍に対してシアン化水素を使用したとされる。旧日本陸軍は、1937年(昭和12年)に「ちや一号」として制式化、その後、対戦車兵器として液化青酸270g入りのビン「一式手投丸缶」(ちび弾とも呼ばれた)を製造した。戦車にぶつけて割ると、装甲の隙間から中に入り込み、乗員を中毒させるのが目的であった。一方、旧海軍では「四号特薬」と呼称した。最近の事例では、1988年3月18日、イラク北東部のハラジャブ市(当時イラン軍の占領下) で、イラク軍によりクルド人に対し使用されたと指摘されている。兵器としてではなく、閉鎖空間での使用例としては、第二次世界大戦下にナチスの強制収容所でユダヤ人殺害のため、毒ガスとして使用された。アメリカ合衆国の一部の州ではガス室刑にシアン化水素を用いていたが、処刑後の清掃などに大きなコストがかかることなどもあり、1999年以降行われていない。執行後のガス室は壁面に付着した青酸ガス成分を除去するため、毎回の洗浄作業が必要となる。この作業に対する防護措置、危険手当、各種消耗品等の負担は大きく、現在の米国において最もコストがかかる死刑方法とされる。1995年5月に新宿駅地下街でオウム真理教信者が、シアン化ナトリウムと硫酸を混合することにより発生させようとしたが、未遂に終わった。イラクは2009年1月に化学兵器禁止条約に加入し、大量の化学兵器を廃棄した。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。シアン化水素は、特に吸入曝露により全身症状を呈するが、皮膚曝露、経口摂取によっても中毒症状を引き起こす。すなわち、使用散布方法としては、閉鎖された室内で使用するか、食物、水分を汚染させるか、もしくは屋外で散布される。アグロテロとして農作物を汚染させる可能性は低いとされる。作用が迅速であるのが特徴で、大量を吸入すると、突然意識を失い、呼吸停止により急死する。重症の場合、迅速に解毒剤を投与することが救命の重要要素となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者と物品に直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

III.1.1.物性

シアン化水素は無色、可燃性の液体または気体である。シアン化水素酸はシアン化水素の水溶液で、青みがかった揮発性の液体である。ともにかすかにビターアーモンド(苦扁桃)臭または桃の種の臭いがある。ここでいうビターアーモンド臭とは、製菓に用いるアーモンドエッセンスの甘い香りとは異なる。 また、嗅盲といって遺伝的にこの臭いを感じない人が20%~40%いる。
[構造式]

[分子量]27.03
[比重]

(気体)0.941、(液体)0.687

[沸点]25.6℃
[融点] -13.4℃
[蒸気圧]

53.3 kPa(≒400 mmHg)(9.8℃) 、98.9 kPa(≒742 mmHg)(25℃)

[揮発度]1.088×106mg/m3/25℃
[引火点]

-17.8℃
可燃性の気体であり、爆発範囲 (5.6~40.0%) を持つ。特にアルカリと反応して爆発する。その他、熱や炎にさらされることによって爆発のリスクが高まる。

[溶解性]

水に極めて良く溶ける。アルコール、エーテルにも溶ける。

[反応性]

水、蒸気、酸または酸性フュームと反応し、あるいは加熱分解により有毒フュームCN-を生じる。熱、炎および酸化剤と接触すると火災の危険性がある。

[環境汚染の持続時間]

基本的に空気よりも軽い気体なので、持続性はきわめて低い。
III.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態

シアン化水素は作用が迅速であるのが特徴で、高濃度曝露では呼吸不全により急死する。吸入時の症状は空気中の濃度により大きく変動する。
60mg/m3 60分曝露では重篤な症状は引き起こさないが、
200mg/m3 10分曝露、
5000mg/m3 1分曝露では死亡することがある。シアン化水素の毒性報告は幅が広く、270 ppmで即死というものから、5,000 ppmの1分間の吸入で半数死亡というものまである。これは肝臓によるチオシアン酸化解毒能力と、細胞の壊死に対する抵抗力における個体差が激しいものと考察される。蓄積性は低いので、一度意識が戻れば急速に回復する。

毒性

[ヒト中毒量]

吸入ヒト中毒量 60mg/m3
60分曝露では重篤な症状は引き起こさない。
最小中毒量 TCLo 500mg 3分
吸入最小中毒量 TCLo  5mg/m3:頭痛
吸入最小中毒量 TCLo 吸入  20mg/m3:悪心、嘔吐、脈拍変化

[空気中濃度と中毒作用]

18~36ppm 数時間曝露後、軽度の症状が出現
110~135ppm 0.5~1時間の曝露で致死または生命に危険
135ppm 30分間の曝露で致死
181ppm 10分間の曝露で致死
270ppm ただちに死亡、または6~8分以内に死亡
(1ppm:1.1mg/m3に相当)
300ppm 数分内に死亡

[血中シアン濃度]

~2.3mg/L:支持療法のみで生存している。
3.85~40mg/L:拮抗剤投与により重度の中毒から生存
1.0mg/L以上で顕著な症状発現

[ヒト致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):2,500mg~5,000 mg・分/ m3
経皮ヒト推定半数致死量(LD50):(液体)約100mg/kg
吸入ヒト致死量:100mg/m3 1時間
120mg/m3 30分
200mg/m3 10分

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

シアン化水素 74-90-8
ppm
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 2.5 2.5 2 1.3 1
(不快レベル)
AEGL 2 17 10 7.1 3.5 2.5
(障害レベル)
AEGL 3 27 21 15 8.6 6.6
(致死レベル)

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
[刺激性]

気道に軽度の刺激性があり、皮膚や眼に液体が触れた場合も刺激性がある。

(参考)
許容濃度等:日本産業衛生学会 許容濃度 : 5ppm (5.5mg/m3) (経皮吸収)
ACGIH TLV-C : 4.7ppm (5 mg/m3 ) (経皮吸収)
NIOSH REL-STEL:4.7 ppm (5mg/m3)
NIOSH IDLH:50ppm(シアン化合物として)

中毒作用機序
細胞呼吸阻害作用
シアン(CN-)は3価の鉄イオン(Fe3+)と強い親和性を持ち、チトクロームオキシダーゼのFe3+に結合し、細胞内呼吸を阻害する結果、細胞のミトコンドリアではブドウ糖からのエネルギー産生が停止する。組織に酸素は運搬されるが組織がこれを利用できない状態となる。いわば、化学的窒息と言われる。
酸素欠乏に伴う二次的作用
中枢神経細胞は酸素欠乏に最も敏感で、まず中枢神経系に影響が出、続いて呼吸増加、心機能亢進し、その後、中枢神経系・呼吸・心筋の抑制により心拍出量が減少する。これらの作用に細胞内低酸素状態が加わる。
体内動態

[吸収]

化学兵器としては経気道的に曝露させるが、大量では皮膚からも吸収されて中毒を引き起こす。

[分布]

血液経由で全器官・組織に分布する。赤血球中の濃度は血漿中の2~3倍、蛋白結合
率:血漿中の約60%が蛋白結合している。分布容量:約0.41L/kg

[代謝]

シアン化水素は、肝臓で硫黄の存在下に酵素ロダナーゼにより代謝され、毒性の低いチオシアネートとなる。

[排泄]

チオシアネートは主に尿中に排泄される。吸収されたシアン化水素の一部は未変化体で肺より排泄される。
III.1.3.症状

概要

大量に吸入すると、突然意識を失い、呼吸停止により直ちに死亡する。シアンは呼吸中枢を直接刺激するため、高濃度曝露では吸入直後には呼吸数、換気量とも増加する。30秒以内には意識消失、痙攣、数分で呼吸停止、さらに数分で心停止にいたる。中等量の場合、病的な状態が1時間以上続くことがある。血管拡張のため曝露後から全身の温感が出現、持続し、紅潮を認める。ついで嘔気、嘔吐、ときに頭痛をきたす。さらに胸部絞扼感を伴う呼吸困難が出現、最後に意識消失し、痙攣が出現する。低濃度曝露では、呼吸数・換気量の増加、めまい、嘔気、嘔吐、頭痛がみられる。曝露が続くと呼吸困難、脱力を伴う。細胞が酸素を利用できないため、静脈血酸素濃度が上昇し、皮膚は鮮紅色を呈する。このためチアノーゼを肉眼的に確認することは困難である。嫌気性代謝による代謝性アシドーシス(乳酸アシドーシス)がみられる。

詳細症状
(1)循環器系:初期には頻脈、血圧上昇、のちに徐脈、血圧低下。
心電図異常;重症の場合、AVブロック、続いて心停止に至る場合もある。ST-T波の変化も見られる。
(2)呼吸器系:初期には呼吸数・換気量の増加、頻呼吸、のちに呼吸抑制(一般的)、無呼吸へと進行する。非心原性肺水腫が出現することがある。チアノーゼはみられない。
(3)精神・神経系:初期には頭痛、頭重感、めまい、中枢神経刺激(不安、興奮、闘争行動)のちに昏睡、痙攣、麻痺、死亡。重症中毒では昏睡、痙攣を起こす。
精神症状として非理性的行動、暴力行為、躁状態が見られる。
(4)泌尿器系:多尿、尿崩症は予後不良を示唆する
(5)酸・塩基平衡:代謝性アシドーシス(乳酸アシドーシス、アニオンギャップ増加)は必発。
(6)内分泌:(重症)インスリン耐性高血糖症
(7)眼:重度の曝露では一般的に散瞳。眼底検査で網膜の動脈と静脈が同程度の赤色を示す。
(8)皮膚:(皮膚曝露)皮膚への直接曝露からも吸収される。全身の重篤な熱傷の報告もある。
*異常臨床検査値:血中シアン濃度の上昇;0.5~1.0μg/mL・・軽度の作用
2.5μg/mL以上・・昏睡、痙攣、死亡
静脈血中酸素濃度の増加、代謝性アシドーシスはシアン中毒
では必発の兆候である。
検査
血液:ヘモグロビン、動脈血液ガス、静脈血酸素分圧または酸素飽和度、血清電解質、血清乳酸塩、全血シアン濃度
ヒドロキソコバラミン使用時には、ヒドロキソコバラミンが赤色のため、AST、クレアチニン、ビリルビン、マグネシウムなどの血中イオンが分光光度計で正確に測定できない恐れがある。
中心静脈血:可能ならば、同静脈酸素分圧差を確認しておくべき。
尿 :尿中シアン化物濃度
胸部X線検査:呼吸困難のある患者では実施する。
MRI:シアン化合物によるパーキンソン症候群のある患者では障害の部位、程度を同定するのに有用。
III.1.4.治療

概要

呼吸循環管理を最優先させる。特に吸入による中毒の場合は、発症が速いので、医療
従事者との接触時に歩行可能であれば、治療の必要性は殆ど無い。
日本で医薬品として市販されシアン中毒の適応がある解毒剤は、ヒドロキソコバラミン、チオ硫酸ナトリウム、亜硝酸アミルである。

詳細
(1)基本的処置
A.避難、除染
・患者を新鮮な空気の下へ移送する(救助者は適切な保護具を着用する)。
・汚染された衣服や靴は注意深く脱がせ、密封し、有毒廃棄物として処理する。
・理論上、気体に曝露されたのであれば、水除染の必要性は低いと思われるが、国際的なガイドラインでは。曝露した皮膚を石けんと水で十分洗い、曝露した眼は温水で15~20分以上洗浄するよう推奨している。
B.シアン化水素への曝露が疑われるようであれば、直ちに純酸素の投与を行う。
呼吸不全を来していないかチェック。心肺停止であっても、口対口人工呼吸は、曝露経路に関わらず、決して行ってはならない。
C. 排泄促進
血液透析: 血液透析はコントロールしにくいアシドーシスを補正し、またチオ硫酸ナトリウムにより生成したチオシアン酸を除去できることから、理論的には有効な方法といえるが、エビデンスに欠けており、シアン中毒の標準的治療法とは考えられない。
血液吸着:現時点ではシアン化水素中毒の標準的治療とは考えられない報告例でも有用性は認められていない。
(2)対症療法
A.酸素投与:直ちに100%酸素投与を開始する。必要であれば気管挿管し気道を確保する。気管支痙攣が起きているときはβ遮断薬を吸入させる。
B.アシドーシス対策:炭酸水素ナトリウム投与
C.痙攣対策:ジアゼパム等ベンゾジアゼピン系薬剤を投与
D.不整脈対策:心電図モニター、一般的な不整脈治療
E.血圧低下対策:ドパミン、ノルエピネフリンの投与
F.肺水腫の有無を確認:曝露後24~72時間まで発現が遅れることがある。
G.電解質バランス調整:大量輸液用の静脈路の確保
(3)特異的処置
解毒剤として日本で医薬品として市販され、シアン中毒の適応がある解毒剤は、ヒドロキソコバラミン、チオ硫酸ナトリウム、亜硝酸アミルである。
1)ヒドロキソコバラミン
薬剤名 :シアノキット(R)注射用5gセット (メルクセローノ)
構成  :ヒドロキソコバラミン注射用5g 1バイアル、
日本薬局方生理食塩水(200mL)1本、
溶解液注入針1個、輸液セット(22ゲージ翼付注射針付き)
1セット、23ゲージ翼付注射針1セット
作用機序  :
ヒドロキソコバラミン分子の三価のコバルトイオンに結合している水酸イオンがシアンイオン(CN-)と置換することにより、無毒のシアノコバラミンが形成され、尿中に排泄される。ヒドロキソコバラミンは血液脳血管関門を通過するため、直接中枢神経系で効果を示す。
用法・用量 :
ヒドロキソコバラミンとして5 g(1バイアル)を生理食塩液200 mLに溶解して必要量を投与する。
・初回投与
成人:通常、ヒドロキソコバラミンとして5 gを、日本薬局方生理食塩液200 mLに溶解して、15分間以上かけて点滴静注する。
小児:通常、ヒドロキソコバラミンとして70 mg/kgを、15分間以上かけて点滴静注する。ただし、1バイアル(ヒドロキソコバラミンとして5 g)を超えない。
・追加投与
症状により1回追加投与できる。
追加投与にあたっては、まずヒドロキソコバラミン初回投与量(成人:5g、小児:70mg/kg)を点滴静注しながら、十分なモニタリングを行い、被災者の臨床症状、たとえば神経・心血管状態が安定するか否かによって、追加投与が必要かを判断する。
適応に従って15分間~2時間かけて点滴静注する。
使用上の注意:
・投与後、皮膚や血清、尿、粘膜に赤色の着色を認めることがある。この着色のため、血液検査、尿検査のデータに影響を及ぼす。この影響は2-3日間続く。
・チオ硫酸ナトリウムとの併用について
IPCSの資料では、重症患者にはヒドロキソコバラミンとチオ硫酸ナトリウムと投与すべしと記載されている。同時投与は避け、同時に投与しなければならない場合には、同じ静脈路から投与しないこと。本剤とチオ硫酸ナトリウムとを混合するとチオ硫酸-コバラミン化合物を形成し、ヒドロキソコバラミンが遊離シアンと結合できなくなり、解毒作用が低下する。
2)チオ硫酸ナトリウム
チオ硫酸ナトリウムは実際には亜硝酸ナトリウムの後に投与されているが、亜硝酸ナトリウムによる治療の開始と同時に投与してもよい。データは少ないが、ヒトでのシアン中毒にチオ硫酸ナトリウムの単独療法が有効であることを示唆する事例報告がある。
薬剤名   :デトキソール(R)静注液2 g<日医工株式会社>(2014年11月現在)
作用機序  :ミトコンドリア内酵素rhodaneseにより、本剤がシアンイオン(CN-)と反応し、毒性が弱く尿中に排泄しやすいチオシアン酸塩(SCN)を生成させる。解毒を促進するために、本剤を静注し補給する。
細胞内のシアンに対しても有効である。これを応用して、遺伝子組
み換えで作成したrhodanese を治療に使おうという試みもある。
用法・用量 :
・成人:通常、1回12.5~25 g静注(増減)。
一般に、10%チオ硫酸ナトリウム125 mLを10分間で静注する。
年齢、症状により適宜増減する。
・初回量;デトキソール(R)注は10%溶液で1バイアル20 mL(2 g)となっているので、成人では125 mLを投与する。
・反復量;1時間後に臨床症状が再発または持続する場合、初回量の1/2を再投与する。
・小児:・412.5 mg/kgまたは7 g/m2体表面積を0.625~1.25g/min.の割合で静注。最大投与量:12.5 g
・体重25kg以下の小児では、50 mg/kgを10分間で静注する。
使用上の注意:
・静脈内投与時、注射の速度をできるだけ遅くする
・腎不全があると、チオシアン酸塩の排泄が減少し毒性が増大する。
・連用した場合に効果が漸次低下する傾向にあるため、投与が7~10回に達した場合、適宜休薬することが望ましい。
・ヒドロキソコバラミンとの併用による有効性および安全性は確立していない。
同時投与は避け、同時に投与しなければならない場合には、同じ静脈路から投与しないこと。
3)亜硝酸塩療法:亜硝酸アミル吸入・亜硝酸ナトリウム静注・チオ硫酸ナトリウム静注
亜硝酸ナトリウムの静注が直ちに可能な場合は亜硝酸アミルを吸入する必要はない。
作用機序  :
亜硝酸塩を投与し、メトヘモグロビンをつくると、チトクロームオキシダーゼのFe3+と結合していたシアンイオン(CN-)が遊離してメトヘモグロビンのFe3+と結合しシアンメトヘモグロビンとなり、チトクロームオキシダーゼを保護する。
処置開始基準:
状況証拠とともに、意識障害、痙攣、アシドーシス、バイタルサインの異常等のシアンによる中毒症状がある中等症~重症症例に使用する。
但し、シアン化水素吸入により昏睡状態に陥っても、曝露がごく短時間で、来院時に意識が回復し、アシドーシスやバイタルサインの異常がみられない場合、投与は必要ない。
3)-1 亜硝酸アミル吸入
薬剤名   :亜硝酸アミル「第一三共」
適応基準  :シアンによる中毒
用法・用量 :
・自発呼吸がある場合、1回1管(0.25 mL)を被覆を除かずそのまま打ち叩いて破砕し、内容をガーゼ等の被覆にしみ込ませて、鼻孔に当てて吸入させる。43)55)
・自発呼吸がない場合バッグマスク等の呼吸器経路内に、1回1管(0.25 mL)を、被覆を除かずそのまま打ち叩いて破砕したアンプルを投入し内容を吸入させる。
亜硝酸ナトリウムの準備ができるまで、100%酸素と交互に30秒間/分吸入、2~3分毎に新しいアンプルを使用する。アシドーシスが認められた場合、炭酸ナトリウム静注により補正を行う。
中止の基準 :亜硝酸ナトリウム静注の準備ができれば中止する。
3)-2 亜硝酸ナトリウム静注
薬剤名   :日本に医薬品の市販製剤はない。
試薬(特級)の亜硝酸ナトリウムを用い3%注射液を院内製剤化し、医師の責任の下に使用する。
用法・用量:
・成人:
初回投与:3%溶液10 mLを3分間で静注する。
再投与:亜硝酸ナトリウム、チオ硫酸ナトリウムの投与でも効果がなければ、重大な合併症(血圧低下、過剰のメトヘモグロビン血症)がない場合に限って、亜硝酸ナトリウムとチオ硫酸ナトリウムを初回の半量投与する。
・小児:亜硝酸ナトリウムとして10 mg/kg(3%溶液として0.33 mL/kg)を3分間で静注する。
使用上の注意:
・投与速度が速いと、血圧低下を起こしやすいので、注意深く頻繁に血圧をモニターしながら投与する。血圧低下がみられた場合、投与速度を遅くする。
・チアノーゼ、メトヘモグロビン血症、溶血性貧血、血圧低下、呼吸困難、頻脈、痙攣等の副作用報告がある。
調整法(非市販品の場合):
試薬(特級)の亜硝酸ナトリウムを用い3%溶液に調整する。
注射用蒸留水20 mLに亜硝酸ナトリウム0.6gを入れて製する。
ろ過滅菌し、アンプルに充填する。
3)-3 チオ硫酸ナトリウム静注
亜硝酸ナトリウムの静注に続いて、本剤の静注を行う。

予後

全身症状が回復するのは通常、速やかである。しかし高率に中枢神経系に障害が残ると考えられる。
*経皮の場合
(1)基本的処置
A.除染:汚染された衣服は脱ぎ、曝露した皮膚を石けんと水で十分に洗浄する。
洗浄後も刺激感や疼痛が続くなら、医師の診察が必要。
B.シアン化合物は皮膚から吸収されて全身症状を引き起こすことがあるので、
注意深く観察する。
(全身症状が出現するのは通常、重篤な熱傷を起こしている場合か、シアン
化合物溶液に全身が浸漬されている場合のみである)
(2)対症療法
必要ならば、吸入・経口の場合に準じて治療する。

経過観察

・軽度の曝露で無症状の患者は4~6時間経過を観察する
・重症患者(昏睡、痙攣、ショック、代謝性アシドーシス、不整脈等)および解毒剤を投与した患者はすべての症状が改善するまで、または少なくとも24時間は入院させ、集中治療室管理を行う。
・迅速に治療が開始された場合、通常、速やかに回復するが、まれに遅れて中枢神経症状が出現することがあるため、数週間~数ヵ月間隔でフォローする。
III.2.塩化シアン(CK)
概要

塩化シアンは、シアン化水素と同じく、血液剤に分類される。空気より重く発火しにくくして、化学兵器として使いやすいように、シアン化水素を改良したものである。第一次世界大戦中、1916年連合軍(仏、英)がドイツ軍に対して小規模に使用した。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。イラン・イラク戦争で、イラクが使用したとされる。イラクは2009年1月に化学兵器禁止条約に加入し、大量の化学兵器を廃棄した。
シアン化水素と同様に、チトクロームオキシダーゼと結合し、細胞の酸素利用を阻害する。無色で揮発性の高い液体または気体。水分や酸と反応し、シアン化水素、塩化水素、塩素などを生じる。シアン化水素と異なり、蒸気は低濃度でも眼、鼻、気道粘膜に強い刺激性がある。催涙剤と同様、曝露直後より、眼刺激、流涙が生じる。吸入するとさらに鼻・喉刺激、咳、胸部絞扼感が出現する。作用が迅速であるのが特徴で、大量を吸入すると、突然意識を失い、呼吸停止により急死する。重症の場合、迅速に解毒剤を投与することが救命の鍵となる。二次汚染を防ぐため、未除染の患者と物品に直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。

III.2.1.物性

塩化シアンは常温で無色、揮発性の高い液体または気体。 (ペルシャ湾地域のような温帯で使用するとガスとなり、低温地域で使用すると、エアゾール状の霧となる。) シアン化水素より比重は大で、不燃性である。
[構造式]

[分子量] 61.48
[比 重] 1.218(4℃/4℃)
[沸 点]  13.1℃
[融 点] -6.5℃
[蒸気圧] 1010 mmHg/20℃
[蒸気密度] 1.98 g/cm3
[揮発度]

2.6×106 mg/m3/12.8℃

[引火点]可燃性なし
[溶解性]

水にわずかに溶ける。
アルコール、エーテルに可溶。有機溶剤に可溶。

[反応性]

水、蒸気、酸と反応し、あるいは加熱分解によりシアン化水素、塩化水素、塩素、NOx等を生じる。
III.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
シアン化水素と異なり、蒸気は低濃度でも眼、鼻、気道粘膜に強い刺激性がある。
約10 mg/m3以上で、直ちに眼刺激、催涙を生じる。
シアン化水素と同様、高濃度曝露では呼吸不全により急死する。
吸入毒性はシアン化水素の1/2以下。

[中毒量]

吸入ヒト中毒量:10 mg/m3 催涙、結膜刺激
吸入ヒト不能量:7000 mg・分/m3

[致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):11000 mg・分/m3
吸入ヒト致死量:48 ppm-30分

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 設定なし
[その他の毒性]

刺激性:低濃度でも眼、鼻、気道粘膜に強い刺激性がある。
眼刺激性(ヒト):>10 mg/m3 直ちに眼刺激、催涙
100 mg 2分/m3 強い刺激性
(参考)
許容濃度等: ACGIH TLV-C: 5mg/m3
NIOSH IDLH:50 mg/m3 (シアン化合物として)
臭い閾値:2.5 mg/m3(1 ppm)で刺激臭
刺激性、催涙性が強いため、臭気は認知しがたい。
中毒作用機序
眼、上気道、肺への刺激作用
遊離した塩素や塩化水素による直接的な刺激作用で、気管支に強い炎症、肺の充血・浮腫を引き起こす。
体内動態

[吸収]

肺から速やかに吸収される。
化学兵器としては呼吸への作用を目的として使用されるが、大量では皮膚
からも吸収されて中毒を引き起こす。
塩化シアンは吸入、皮膚から吸収される。

[分布]

塩化シアンは血液経由で全器官・組織に分布する。
赤血球中の濃度は血漿中の2~3倍。
蛋白結合率:血漿中の約60%が蛋白結合している。
分布容量:約0.41 L/kg

[代謝]

塩化シアンはヘモグロビンおよびグルタチオンと反応してシアンイオンを生じ、
肝臓で硫黄の存在下、酵素ロダナーゼにより代謝され、毒性の低いチオシアネート
となる。

[排泄]

チオシアネートは主に尿中に排泄される。
吸収された塩化シアンの一部は未変化体で肺より排泄される。
III.2.3.症状

概要

10 mg/m3以上の濃度では直ちに眼刺激、催涙を生じる。吸入するとさらに鼻・喉刺激、咳、胸部絞扼感が生じる。全身症状が治まった後に肺水腫が出現することがある(多量の泡沫状喀痰を伴う持続性咳嗽、crackle、重度の呼吸困難、著明なチアノーゼが認められる)。
詳細症状
シアン化水素のIII.1.3.項を参照。
III.2.4.治療

概要

呼吸循環管理を最優先する。特に吸入による中毒の場合は、発症が速いので、医療従事者が接触した時に歩行可能であれば、治療の必要性は殆ど無い。日本で医薬品として市販されシアン中毒の適応がある解毒剤は、ヒドロキソコバラミン、チオ硫酸ナトリウム、亜硝酸アミルである。重症例ではシアン化水素中毒と同様に治療する。
詳細
シアン化水素のIII.1.4.項を参照。
III.3.ヒ化水素(SA)
概要

アルシン(ヒ化水素、水素化ヒ素)は、シアン化水素塩化シアンと同様に血液剤としてまとめられるが、いわゆるシアン中毒とは作用機序が異なり、溶血毒である。溶血することによって末梢組織への酸素供給が低下する意味では、同じ仲間である。化学剤として研究されてきたが、アルシンはホスゲンの10分の1の毒性といまひとつ毒性が低く、製造が難しく、可燃性も高いことから実際には今まで戦場で使用されたことがない。それでも、いわゆるジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。その後、化学兵器禁止条約(1997年)で開発・製造・貯蔵・使用が禁止された(日本は調印済み)。しかし、小規模なテロの手段として使用される懸念はある。また、ヒ素中毒の患者を胃洗浄する際に、ヒ素と胃酸(塩酸)とが反応して、ヒ化水素を発生することが知られており、中毒診療上、その中毒への対策が問題となっている。工業界でも、半導体のマイクロチップを製造する作業過程でも発生する。さらには、砒素を含む殺虫剤と酸を混合しても発生する可能性がある。無色で粘膜刺激作用の無い気体である。濃度が0.5ppm以上であればわずかなニンニク臭であるが、それより低い濃度(0.05ppm)から毒性を示す。ニンニク臭は、不純物のテルルによるものとも言われる。重篤な中毒であれば、曝露後30~60分以内に症状が発現するが、通常は非刺激性のため、当初は顔色や気分も比較的良く、症状が遅れて(曝露の程度によるが2~24時間後)発現する。アルシン中毒の三主徴は、腹痛、ヘモグロビン尿、黄疸であり、多数の被害者が遅れてこのような症状をきたしていれば、アルシン中毒を疑う。特徴的な毒作用は血管内溶血である。溶血により急性腎不全が生じる。腎に対する直接作用もある。死因は腎不全、心筋障害、肺水腫である。貧血には輸血、重症の溶血には交換輸血を行い、腎不全には血液透析を行う。アルシン(砒化水素)は砒素化合物より発生するが、アルシンによる中毒は砒素中毒ではない。従って、砒素のキレート剤の投与は無効であり、むしろ投与してはならない。

III.3.1.物性

無色で、粘膜刺激作用の無い気体。
[構造式]

[分子量] 77.93
[比重] 3.484 g/L
[沸点] -62.5℃
[融点] -117℃
[蒸気圧]

11,000 mmHg at 68 EF (20EC) HSDB 2007)

[相対蒸気密度]2.66(空気=1)
[引火点]

極めて可燃性あり。熱や火花で爆発の危険あり。

[溶解性]

水、アルカリ、エタノールに微溶。

[反応性] 光により急速に分解する。
[環境汚染の持続時間]

ガス体なので、持続性は低い。
III.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態

0.05ppm以上で毒性を示す。ガス自体に刺激性が無く、臭いも中毒量よりも高い濃度でしか感じないので、臭いで被害を防ぐことはできない。

毒性

[曝露濃度と中毒作用]

3ppm   1分間の吸入で中毒
25-50ppm 30分の吸入で死亡(溶血による)
100ppm  30分以内の吸入で死亡(溶血による)
150ppm  ただちに死亡
尿中ヒ素濃度との関係
70-100mcg/L 中毒症状出現(正常値:<20μg/L)

[ヒト中毒量]

ヒト最小中毒濃度 3ppm
325μg/m3

[ヒト致死量]

ヒト最小致死濃度 25ppm・30分
300ppm・5分

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

アルシン 7784-42-1
ppm
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 NR NR NR NR NR
(不快レベル)
AEGL 2 0.3 0.21 0.17 0.04 0.02
(障害レベル)
AEGL 3 0.91 0.63 0.5 0.13 0.06
(致死レベル)

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値
(参考)
許容濃度等 ACGIH TLV-TWA:0.05ppm
NIOSH IDLH:3ppm

中毒作用機序
赤血球中のグルタチオンを枯渇、膜を不安定にし、急速に大量の溶血を起こす。
体内動態

[吸収]

ヒ化水素は吸入によりよく吸収される。
皮膚からも吸収される。

[分布]

ヒ素は肝、骨、皮膚、内臓、髪、爪など体内に広く分布する。

[代謝]

詳しい代謝経路は分かっていない。

[排泄]

長期間のうちにわずかな量のヒ素が、尿、糞便、髪、爪に排泄される。
わずかな量はトリメチルアルシンとして呼気に排泄される。
III.3.3.症状

概要

重篤な中毒であれば、曝露後30~60分以内に症状が発現するが、ガスは非刺激性のため、当初は顔色や気分も比較的良く、症状が遅れて(曝露の程度によるが2-24時間後)発現する。初期症状は、全身性の筋力低下、頭痛、悪寒、口渇、腹痛、呼気にニンニク臭、結膜の変色で、食欲不振、悪心嘔吐などの胃腸症状もあらわれる。アルシン中毒の三主徴は、腹痛、ヘモグロビン尿、黄疸である。特徴的な毒作用は溶血である。溶血により急性腎不全が生じる。腎に対する直接作用もある。死因は腎不全、心筋障害、肺水腫である。心筋に対する作用は、アルシンによる直接作用による可能性が高い。
詳細症状
(1)循環器系
低血圧症、不整脈、心電図上T波の上昇、頻拍
遅れて心筋壊死・心機能不全(18ヵ月後)
(2)呼吸器系
呼気にニンニク臭。呼吸困難、頻呼吸
高濃度曝露:急性肺炎または肺水腫、crackle、ARDS
(3)神経系
頭痛、倦怠感、錯乱、めまい、感覚異常
高濃度曝露:数日後に脳症(不穏、記憶力の消失、激情、失見当識)
2-3週間後に末梢神経症状(手・足のしびれ、筋肉の衰弱、羞明)
アルシン曝露1-6ヶ月後に運動神経、感覚神経共にポリニューロパ
チー、精神症状が出現したとの報告もある。
(4)消化器系
嘔気、嘔吐、食欲不振、腹痛
(5)肝機能
黄疸(24-48時間後)(重篤な溶血の場合)、肝腫大
(6)泌尿器系
紅茶色のヘモグロビン尿(4~6時間後)、血尿、脇腹痛、乏尿、無尿
ヘモグロビン尿がしばしば目に見える最初の症状であることがある
急性腎不全(溶血による)
(7)その他
*血液
溶血(4-6時間後)、曝露24時間以上経過してからは、溶血は起こらない。
高カリウム血症
*皮膚
ブロンズ様(青銅色)の色素沈着(重篤な溶血の場合)
*筋肉
全身性筋力低下、筋痙攣、戦慄
*その他
口渇、悪寒、結膜の変色(赤、オレンジ、茶、真ちゅう色、過ビリルビン血症によるものではない) 発熱(マラリアやレプトスピラ症と間違われることがある)
*異常臨床検査値
血中ヒ素濃度:重篤な中毒であれば200μg/dL(正常値<20μg/dL)の値を示すが相関性はない。曝露の指標にはなる。血漿遊離ヘモグロビン濃度は2g/dLを超えることがある(正常値<1mg/dL)。ハプトグロビン濃度の低下、ヘマトクリット値の低下 。尿中ヒ素濃度は上昇しているかもしれないが、これは救急医療の現場では役に立たない。
検査
血中ヒ素濃度の測定:重篤な中毒であれば200μg/dL(正常値 <20μg/dL)
以上の値を示すが相関性はない。曝露の指標にはなる。呼吸器症状がある患者で
は、胸部X線検査を行う。
III.3.4.治療

概要

症状が遅れて(2~24時間後)出現するので、十分注意して経過観察する。
溶血の所見があれば、72時間は腎不全の徴候が現れないか観察する必要がある。
必要に応じて、交換輸血、血液透析、ハプトグロビン製剤の投与を考慮する。
詳細
*吸入の場合
(1)基本的処置:新鮮な空気下に移送、ガス体なので、皮膚は除染の必要が無い。
(2)対症療法
1)呼吸管理:気道確保し、100%酸素吸入
2)輸液管理:高カリウム血症(溶血、嘔吐による)に留意。溶血を生じている患者の尿はアルカリ化し、尿量は2mL/h/kgに維持する。
アルカリ尿を保つことで、ヘモグロビンとアルシン化合物の腎尿細管への沈着を防ぐ。
(3)特異的治療法
1)交換輸血:
・重症の溶血には交換輸血を行う。
・血漿遊離ヘモグロビンが1.5g/dL以上であれば考慮する。
・早期であれば、赤血球に取り込まれたヒ素を除去するのに有効である。
2)血液透析:
・単なる保存的治療、腎障害の予防だけでなく、血中のヒ素を減少させる。
(ただし、本中毒の本態は砒素中毒ではない)。
3)ハプトグロビン製剤の投与
高度の溶血によってヘモグロビンが大量に放出されると、血液中のハプトグロビンがヘモグロビン代謝のために消費されて消失する。そうなると処理しきれない過剰の遊離ヘモグロビンが血液中に残ることになる。遊離ヘモグロビンは尿細管の機能障害(腎障害)を引き起こす。そこで、血液から精製したハプトグロビン製剤を投与し、血液中のハプトグロビンを補充することにより、過剰の遊離ヘモグロビンを肝臓に運び処理すれば、溶血に伴う腎障害を抑制することができる。日本では、この目的で、ハプトグロビン製剤が使用されているが、ハプトグロビン製剤は血液製剤であるので、リスクとベネフィットを勘案した上で使用の可否を判断する。
4)BALやその他のキレート療法:
・無効。曝露直後に使用できたとしてもアルシンによる溶血を抑えることができない。

経過観察

症状が遅れて(2~24時間後)出現するので、十分注意して経過観察する。
無症状の場合、4~6時間経過観察し、その間無症状の場合、退院させたとしても、その後、症状が出現、あるいは尿の変色が出現すれば直ちに受診させる。
溶血の所見があれば、72時間は腎不全の徴候が現れないか観察する必要がある。
IV.窒息剤
IV.1.塩素(Cl2)
概要

緑黄色、強い刺激臭のある気体で、ホスゲンジホスゲンクロルピクリンと同じく窒息剤に分類される。第一次世界大戦において本格的に使用された。1915年4月22日ドイツ軍がイープル戦で連合国軍に対して塩素ガスによる攻撃を開始し、その後大規模に使用した。これは、人類史上最初の大規模毒ガス攻撃とされる。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。粘膜刺激作用が強く、特に吸入曝露により呼吸器(主に上気道)を刺激し、呼吸器症状が出現する。窒息剤の吸入毒性はホスゲンクロルピクリン>塩素の順に強い。窒息剤の物性は、水溶性により、アンモニアの様に高い水溶性を示すものとホスゲンのように低い水溶性のもの、塩素のようにそれらの中間の水溶性を呈するものとに分けられる。臨床的には水溶性が高ければ上気道の病変が主体となり、低ければ下気道の病変が主体と成り、中間の水溶性であれば、上気道、下気道共に侵されることになる。空気より重く、低所や密閉空間では危険性が高まる。軽度~中等度の曝露では、喘鳴、嗄声、咳、呼吸困難、息切れ、胸部灼熱痛、窒息感がみられ、大量曝露では一般的に肺水腫が出現する。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。二次汚染を防ぐため、除染患者の除染に従事する者や物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。最近では、塩素は化学兵器というよりも危険な化学工業品として認識されており、広く工業界に存在する塩素がテロリストに使用されてしまうことが懸念されている。米国国土安全省のシナリオでは、大都市では塩素ガスのテロにより17,000名の死者と100,000人の負傷者が出ることが想定されている。

IV.1.1.物性

常温で気体、緑黄色、強い刺激臭がある。 7気圧以上で液体となるので保管、輸送には耐圧ボンベに入れられ、液体は橙黄色。水に溶けて塩酸となる。水素と爆発性混合気体をつくる。これは日光、加熱、火花により爆発する。金属類と接触すると発火して反応。微量の水分がこれを促進する。
[構造式]

Cl2

[分子量]70.9
[比重]

(蒸気)2.48 (空気=1)
(相対蒸気密度 (空気=1):2.5
(液体)1.4085 (20℃、6.864気圧で)
(液体)1.5649 (-35℃、0.9949気圧で)

[沸点] -34℃
[融点] -101℃
[蒸気圧]

673 kPa(≒5048 mmHg)(20℃)、 777 kPa(≒5830 mmHg)(25℃)

[相対蒸気密度]2.5(空気1)
[引火点]

ガスそのものは、可燃性なし

[溶解性]

水に溶けて塩酸となる。
水への溶解度:0.9972g/100mL(10℃)
:0.7g/100mL(20℃)

[反応性]

火災危険:中等度。テレピン油、エーテル、アンモニアガス、炭化水素、金属粉等とも反応して発火ないしは爆発を起こす。
混触危険物質:アンモニア、有機化合物、アセチレン(光照射)、チタン、Al、SbCl3、テトラエチルシラン、アリルスルフィンアミド、tert-ブタノール、ブチルゴム-ナフタレン、3-クロロプロピン、塩化コバルト(II)メタノール、フタル酸ジブチル、ジクロロ(メチル)アルシン、エーテル、ジエチル亜鉛
爆発性混合物をつくるもの:硫酸アミド、ベンゼン、ジメチルホスホルアミド、グリセリン、ジメチルホルムアミド、ヘキサクロロジシラン
腐食性:きわめて強い。特に水分があると、大部分の金属を腐食する。水分のない時は、高温、加圧下で反応。
空気中での性質:液化ガスは速やかに気化し、有毒・腐食性ガス(塩酸)を発生する。このガスは空気より重く、低所に流れる。

[環境汚染の持続時間]

塩素は暖かい天候の下では速やかに消散するので、環境中の残留性は低い。
IV.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

[中毒量]

吸入ヒト半数不能量:1,800mg-分/m3
曝露濃度と中毒作用
0.2-3.5ppm 臭いを感ずるが、曝露に耐え得る
1-3ppm   軽度の粘膜刺激性があるが、1時間以内の曝露には耐え得る
5-15ppm   上気道に中程度の刺激性あり
30ppm    曝露直後より胸痛、嘔吐、呼吸困難、咳
40-60ppm 肺炎、肺水腫
430ppm   30分間以上の曝露で致死的
1,000ppm   数分間以内の曝露で致死的
小児は、気道の直径が小さいので、成人よりもより感受性が高い。そのうえ、体重
あたりの分時換気量が大きく、避難にかかる時間も長くなりがちであるため重症化
しやすい。

[致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):19000mg-分/m3
吸入ヒト;LCLo:430ppm/30分
34~51ppmに1~1.5時間以上曝露された場合も同様に致死的
吸入ヒト;LCLo:500ppm/5分
吸入ヒト;LCLo:2,530mg/m3/30分

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

塩素 7782-50-5
ppm
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 0.5 0.5 0.5 0.5 0.5
(不快レベル)
AEGL 2 2.8 2.8 2 1 0.71
(障害レベル)
AEGL 3 50 28 20 10 7.1
(致死レベル)

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

(参考)
許容濃度:
LV-TWA:0.5ppm(約1.5mg/m3)
TLV-STEL:1ppm(約3.0mg/m3)
IDLH::25ppm
臭い閾値:3.5ppm

[刺激性]

強い粘膜刺激作用
中毒作用機序
・皮膚・粘膜刺激作用が強く、高濃度では腐食作用を示す。
・呼吸器(主に上気道)に対する刺激作用が強い。
塩素は水に溶けやすいため、吸入により喉頭など上気道に作用する。
塩素は生体の水と触れると活性酸素(発生基酸素)と塩酸を生じ、活性酸
素の強い酸化作用により組織傷害、酸により刺激を引き起こす。
体内動態

[吸収]

塩素ガス濃度にもよるが、通常、初期中毒症状は曝露直後に発現する。

[代謝]

生体の水分と触れると活性酸素と塩酸を生じる。
IV.1.3.症状

概要

呼吸器系症状は曝露直後~数時間以内に発現する。気道刺激が強い場合、肺水腫になることがあり、曝露後24時間以内または24~72時間後に発症することがある。曝露後、喉頭痙攣を起こして瞬時に呼吸停止に至ることもある。塩素ガス曝露により、眼、鼻、口の灼熱感、流涙、鼻漏、嘔気・嘔吐、頭痛、めまい、失神、皮膚炎を生じる。咳、窒息、胸骨下痛、低酸素血症、肺炎、気管支痙攣、肺水腫が出現することもある。気管支肺炎、呼吸器系虚脱は致死的合併症である。軽度曝露では肺の異常を残すことはほとんどないが、中等度~大量曝露ではしばしば後遺症として長期的な肺機能障害が残る。これは、反応性気道疾患群 (Reactive Airway Dysfunction Syndrome: RADS)と言われ、どの患者が慢性的な後遺症を残すかを予測することはできない。しかし、喫煙歴があったり、以前、RADSに罹患した者はリスクが高いと言われる。低酸素血症が続く場合、致死率が高い。
詳細症状
(1)呼吸器系:
(軽度/中等度曝露)喘鳴、嗄声、咳、呼吸困難、息切れ、胸部灼熱痛、窒息感
(大量曝露)肺水腫、喉頭痙攣、喉頭浮腫による低酸素血症、チアノーゼ、呼吸停止
高濃度では失神、即死もあり得る。
(後遺症)高齢者や曝露直後に顕著な呼吸障害がみられた患者で
は遷延性の後遺症RADSが出現する頻度が増大する。
(2)循環器系:脈拍微弱、高血圧に続く低血圧、循環虚脱
(大量曝露)循環虚脱、頻脈、不整脈
循環不全により24時間以内に死亡することがある。
(3)神経系:頭痛
興奮・不穏;呼吸障害のある患者で出現することがある。
中枢神経抑制;重篤な肺障害が生じた患者では中枢神経抑制(嗜眠~昏睡)を引き起こすことがある。
(4)消化器系:流涎、嘔気、嘔吐(典型的)
(5)酸・塩基平衡:(大量曝露)低酸素血症に続いて、代謝性アシドーシスがみられる。
(6)皮膚:発汗、紅斑、疼痛、刺激感、水疱形成、高濃度で熱傷、顔面に塩素ざ瘡をみる場合がある。加圧した液化塩素では、皮膚の凍傷、熱傷
(7)眼:刺激感、灼熱感、結膜炎
(8)鼻:刺激感、灼熱感
(9)喉:刺激感、灼熱感、疼痛、嗄声
(10)血液:白血球増多症は塩素曝露と相関性を示す
IV.1.4.治療

概要

塩素ガスに曝露されても、皮膚や眼の刺激症状が全く無ければ、除染を行う必要は無い。除染は、一般的に3-5分間、大量の水で除染することとされている。
鼻、喉、眼、気道粘膜にわずかに灼熱感(軽度の咳を伴うこともある)があるだけの患者は曝露場所を離れるだけで、通常、治療を必要としない。より強い症状(胸部絞扼感、呼吸困難、強い咳、不穏等)がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。長期間にわたる呼吸障害が後に出現することがあるので、入院させて6~12時間経過観察することが勧められる。咳がひどい場合には、リドカイン4%溶液4mlで症状は改善する。特異的解毒剤・拮抗剤はない。基本的処置を行った後、対症療法を行う。輸液管理は、進行する肺水腫を防ぐために輸液制限や利尿剤を使う。また、人工呼吸器管理ではPEEPを使用する。気管支痙攣をおこしている場合には、β2作動薬を使う。軽い呼吸器症状や気管支攣縮であれば、β刺激薬の吸入で治療を行う。激しいせきがあるものの呼吸障害を来たしていない場合には,リドカインの吸入(4%溶液4ml)を行えば症状を落ち着かせる。呼吸状態が悪化すれば、気管挿管のうえ、人工呼吸器につながれるが、その際には、tidal volume を5-8ml/kgと低換気にすることが推奨される。理論的には、重炭酸ナトリウムの吸入(5%溶液の吸入)が有効である可能性がある。次亜塩素酸や塩酸を中和できるはずである。いくつかの研究で、ステロイドの吸入、静脈投与の有効性が示唆されている。しかも、投与のタイミングは曝露後可及的速やかに行うことによってより良い結果を得ると言う。このほかの有望な治療としては、N-アセチル-L-システイン(NAC)などのような抗酸化剤などがあるが、まだ動物実験の段階である。
詳細
*吸入した場合
(1)基本的処置
新鮮な空気下に移動、呼吸不全をきたしていないかチェック。保温し安静を保つ。
(2)対症療法
A.咳や呼吸困難のある患者には、必要に応じて気道確保、酸素投与、人工呼吸等を行う。
酸素投与
最初に加湿した100%酸素を短時間投与し、その後酸素濃度を調節する。5%重炭酸ナトリウムで加湿した酸素により呼吸器症状が劇的に改善されたとの報告があるが、有効性・安全性は確認されていない。
胸部X線検査:気道刺激がある場合、胸部X線検査を行う。
呼吸機能検査:呼吸器系症状は曝露直後~数時間以内に発現することがあるので、呼吸機能を数時間モニターする。症状が消失するまで呼吸機能を長期モニターするのが望ましい。人工呼吸を必要とする呼吸不全をきたすと、予後が悪い。
B.熱傷:粘膜、眼、皮膚が腐食されていないか調べる。粘膜の腐食・熱傷がある場合、通常の熱傷治療、二次感染予防処置を行う。
C.気管支痙攣:喉頭痙攣、気管支痙攣は気管支拡張薬の吸入治療を行う。
D.肺水腫:気道刺激が強い場合、肺水腫になることがあるので、動脈血液ガスをモニターするなど呼吸不全の発生に留意する。
呼吸不全が進行する場合は人工呼吸(持続的陽圧呼吸)が必要。
E.不整脈:重症の場合を除いて不整脈は少ない。心電図モニターで重症の不整脈がみられる場合、抗不整脈薬投与を考慮する。
*眼に入った場合
(1)基本的処置:大量の微温湯で15分間以上洗浄する。
(2)対症療法:洗浄後も刺激感や疼痛、腫脹、流涙、羞明などの症状が残る場合には眼科的診療が必要。角膜刺激がある場合、角膜障害についてフルオレスセイン染色法で検査し治療する。
*皮膚に付着した場合
(1)基本的処置:付着部分を石鹸と水で十分に洗う。
(2)対症療法:洗浄後も刺激感や痛みが残るならば受診。必要ならば、吸入の場合に準じてリドカインを塗布する。
*経口の場合
(1)基本的処置
A.催吐:すべきではない(食道・消化管の刺激・熱傷が起きることがあるため)
B.胃洗浄:出血・穿孔の可能性があるため、有用性については十分検討すべき
(痙攣対策を行った上で実施する)。
C.活性炭・下剤投与
(2)対症療法
A.食道・消化管の刺激・熱傷が進行する可能性があるので、注意深く観察する。
B.これらの徴候がみられた場合、傷害の程度を調べるために内視鏡検査を考慮する。

経過観察

曝露後24時間の経過が良好であれば、退院させてよい。曝露の程度によるが、二次感染がなければ、通常3~4日以内に改善する。人工呼吸を必要とする呼吸不全をきたすと、予後が悪い。
IV.2.クロルピクリン(PS)
概要

第一次世界大戦において、1916年以降ドイツ軍、連合国軍ともにクロルピクリンを化学兵器(催涙ガス)として使用した。1918年に燻蒸剤として有用であることが判明した。日本でも農薬登録されている。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年に批准)。農薬として使用時にまれに事故が起こるほか、テロではないが、1988年には、暴力団員が北九州市の入浴施設にクロルピクリンを投げ込み入場客約150人が中毒症状を起こした事件があった。近年では、1989年4月9日、ソ連のグルジャ共和国の民族デモに治安部隊が出動し、クロルピクリンを使用した。また、2008年には、熊本県の救命救急センターにてクロルピクリンを自殺企図で服毒した患者が嘔吐し、患者や職員50名以上が中毒症状を来たした。事故事例では、液体が気化して被害を起こすが、理論上、液体として食べ物や飲料水に混入される可能性もある。ホスゲンジホスゲン塩素と同じく、窒息剤に分類される。無色、油状の刺激性液体で、強烈な臭いがあり、容易に気化する。粘膜刺激作用が強く、特に吸入曝露により、呼吸器症状が出現する。窒息剤の吸入毒性はホスゲン>クロルピクリン>塩素の順に強い。空気の5.7倍の重さで、地面を這うようにして緩やかに拡がる。眼痛、流涙、咽頭痛、咳、鼻汁、嘔気・嘔吐、頭痛が一般的にみられる。重症例では胸痛、呼吸困難、喘鳴、喘息様発作、喉頭痙攣、気管支肺炎、肺水腫が出現することがある。二次汚染を防ぐため、液滴の付着した未除染の患者を除染する者や汚染された物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。
なお、クロルピクリン工業会は事故の未然防止、緊急対応の普及に熱心であり、そのホームページ(http://www.chloropicrin.jp/)には、各種資料を収載している。

IV.2.1.物性

無色、油状の刺激性液体、刺すような刺激臭がある。
[構造式]

[分子量]164.39
[比重] 1.651
[沸点] 112℃
[融点] -64℃
[蒸気圧]

2.7 kPa(=20.15 mmHg)(20℃)

[相対蒸気密度]5.7(空気1)
[揮発度]
[引火性]可燃性あり。
[溶解性]

エチルアルコール、ベンゼン、二硫化炭素に可溶。エチルエーテルには微溶性、水には不溶。
1mg/Lは148.8ppm、1ppmは6.72mg/m3

[反応性]

酸に安定、アルカリに不安定。気化ガスは引火性、爆発性なし。
加熱すると分解し有毒フュームのCl-、NOxを発生する。水中では分解しない。特に大きな液体容器の場合、火気、衝撃があれば、爆発の危険性がある。光の影響下で分解し、有毒なフューム(塩化水素、窒素酸化物など)を生じる。日光により分解し、ホスゲンが生成される可能性がある。

[環境汚染の持続時間]

土壌中推定半減期:(沖積土、洪積土)4日、(火山灰土)5日
環境中で比較的安定で、ゆっくりと揮発する。
IV.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
ヒトの吸入毒性は ホスゲン>クロルピクリン>塩素の順に強い。
30分間曝露時の致死濃度:ホスゲン;25ppm、クロルピクリン;119ppm、塩素;430ppm

[中毒量]

吸入ヒト;TCLo:2mg/m3(0.3ppm) 流涙、結膜刺激
1ppm    流涙、痛み
4ppm 数秒間の曝露で行動不能となる。
15ppm 数秒間の曝露で呼吸・気道障害を起こす。
・大気中濃度とヒトに対する影響
0.1ppm 長時間作業における無影響レベル
約 1ppm  短時間作業における無影響レベル、感知可能濃度
約 2ppm  催涙濃度
約 5ppm  不耐濃度
約10ppm  長時間曝露における致死濃度
約100ppm 短時間曝露(30分)における致死濃度
約300ppm  極めて短時間曝露(10分)における致死濃度

[致死量]

吸入ヒト;LC:119 ppm(=0.8 mg/L)/30分 肺水腫を起こして死亡
297.6 ppm(=2 mg/L=2,000mg/m3)/10分

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

クロールピクリン CAS: 76-06-2
ppm
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 0.05 0.05 0.05 0.05 0.05
(不快レベル)
AEGL 2 0.15 0.05 0.05 0.05 0.05
(障害レベル)
AEGL 3 2.0 2*0 1.4 0.79 0.58
(致死レベル)

AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

参考
許容濃度:日本産業衛生学会:0.1ppm(0.7mg/m3)
ACGIH:(時間荷重平均値)0.1ppm(0.7mg/m3)
(短時間曝露限度)0.3ppm(2mg/m3)
TLV-TWA:0.1ppm(0.7mg/m3)
OSHA-PEL:(0.1ppm(0.7mg/m3)
OEL-TWA: 0.1ppm(0.7mg/m3)
臭い閾値:1.1ppm、 7.3mg/m3
中毒作用機序
・皮膚・粘膜刺激作用が強く、腐食性もある。
活性化されたハロゲン基を持つ SN2(2分子置換反応)アルキル化剤で、SH基と強く結合する性質があり、眼粘膜や鼻粘膜の知覚神経終末でSH含有酵素を阻害する。その結果、疼痛、流涙、鼻汁などを引き起こす。
・呼吸器に対する作用部位は塩素ホスゲンの中間。
クロルピクリンは水に溶けにくいため上気道よりも中・細気管支を傷害する。
これに対し、塩素は喉頭など上気道に作用し、ホスゲンは肺胞を強く傷害し肺水腫に至る。
・ヘモグロビン中のSH基と反応し、酸素運搬能を阻害する。
・日光により分解し、ホスゲンが生成される可能性がある。
体内動態

[吸収]

吸入により速やかに吸収される。

[代謝]

不明。肺で分解されない。
IV.2.3.症状

概要

曝露直後より眼痛、流涙、結膜充血などの局所刺激症状が出現する。吸入すると、咽頭痛、咳、鼻汁、流涙、嘔気・嘔吐、頭痛が一般的にみられる。重症例では胸痛、呼吸困難、喘鳴、喘息様発作、喉頭痙攣、気管支肺炎、肺水腫が出現することがある。また血圧低下、嗜眠状態、痙攣、肝・腎機能障害などがみられることもある。強い眼刺激性があり、眼に入ると、流涙、眼痛を起こす。重篤な角膜損傷を引きおこすことがある。皮膚刺激作用が強く、皮膚に付くと、水疱、びらん、熱傷等を引き起こすことがある。経口摂取すると、嘔気、嘔吐、下痢を伴う重篤な胃腸炎、腹痛を起こす。大量摂取時には、全身の毛細血管透過性が亢進し、肺水腫、循環虚脱を呈することがある。
詳細症状
(1)呼吸器系:咳、喀痰、咽頭痛、胸痛、呼吸困難、喘鳴、喘息様発作、喉頭痙攣、気管支肺炎、肺水腫、閉塞性細気管支炎
(動物、長期曝露)下気道傷害(線維形成性気管支周囲炎、細気管支周囲炎)が後遺症として残ることがある。
(2)循環器系:頻脈、不整脈、軽度血圧上昇(いずれも恐怖と疼痛によるもの)
低血圧、中心静脈圧上昇、肺血管抵抗上昇、全末梢血管抵抗低下
(3)神経系 :頭痛、めまい、嗜眠状態、振戦、運動失調、筋線維束攣縮、筋不全麻痺、てんかん様痙攣、せん妄、失語症
(4)消化器系:(経口の場合)嘔気、嘔吐、不快な味、上腹部不快感、腹痛、下痢、胃、腸炎、食道狭窄、食道びらん・出血性潰瘍、胃潰瘍
(5)肝   :肝障害(s-GOT、s-GPTの軽度上昇)
(6)泌尿器系:腎障害
(7)皮膚:刺激、疼痛、熱傷(I~II度)、接触部位の水疱、びらん、皮膚炎
(8)眼 :流涙、眼痛、複視、角膜剥離を伴う化学損傷、眼痙攣、散瞳、充血、浮腫、結膜炎を起こし、視力障害を起こすことがある。
(9)血液:低蛋白血症、低酸素血症、貧血
(10)鼻 :鼻漏、くしゃみ
(11)口:唾液分泌亢進、不快な味
(12) 酸・塩基平衡:代謝性アシドーシス
(13)その他:間歇期にアルコール飲用後、失語症を呈した症例がある。
検査
・動脈血血液ガスモニター
・胸部X線検査:多量吸入時や呼吸器系症状のある場合、胸部X線検査を行う。
・肝機能検査、肺機能検査:急性症状がおさまった後に行う。
・内視鏡検査:食道・消化管の刺激・熱傷がある場合、傷害の程度を調べるために内視鏡検査を考慮する。
粘膜損傷の程度を観察するのに有用であるが、穿孔の危険性を伴うため慎重にすべきである。
IV.2.4.治療

概要

特異的解毒剤・拮抗剤はない。基本的処置を行った後、対症療法を行う。呼吸・循環器機能の維持管理を行う。
詳細
*吸入の場合
(1)基本的処置
新鮮な空気の下に移動。呼吸不全を来していないかチェック。保温し、安静を保つ。
(2)対症療法
咳や呼吸困難のある患者には、必要に応じて気道確保、酸素投与、人工呼吸等を行う。多量吸入時や呼吸器系症状のある場合、胸部X線検査を行う。喉頭痙攣では気管挿管し、人工呼吸が必要である。喉頭痙攣、喘鳴は気管支拡張薬の吸入治療を考慮する。気管支のれん縮が起きている場合には、サルブタモールの吸入やアミノフィリンの投与を行う。高濃度酸素の吸入をしてもPaO2が上昇しなければ肺水腫の発生に注意し、気管挿管を行い十分な加湿とともに人工呼吸(持続的陽圧呼吸)が必要である。ウサギの肺水腫に対して前投薬としての抗ヒスタミン剤の静注は有効。曝露後(特に症状出現後)に投与した場合の有効性は不明である。気管支肺炎:細菌感染の関与があれば、抗生物質を使用する。ステロイドは一般に無効である。肺の炎症反応軽減目的で短期間(2-4日)ステロイドを投与してもよいが、エビデンスは無いうえ、易感染性を引き起こす可能性もある。遷延性に閉塞性細気管支炎や二次性気道感染を起こすことがあるので、注意深く観察する。
*眼に入った場合
(1)基本的処置
直ちに大量の微温湯で15分間以上洗浄する。 眼はこすらない。
(2)対症療法
強い眼刺激、角膜損傷を起こす可能性があるので、洗浄後、早期に眼科的診察を受けるのが望ましい。刺激が続く場合、眼科用ステロイド剤または局所麻酔剤含有眼軟膏が時に必要。
*皮膚に付着した場合
(1)基本的処置
直ちに付着部分を石鹸と流水で十分洗う。皮膚から除去されるスピードが極めて重要となる。
(2)対症療法
刺激感、疼痛が残るなら医師の診察が必要。皮膚の熱傷がある場合、標準的外用剤による熱傷治療を行う。皮膚の過敏反応を示す患者はステロイド剤または抗ヒスタミン剤の全身投与または塗布治療を行う。皮膚炎が1時間以上続く場合、ビューロウ溶液(1:40)での湿布包帯、ステロイド剤またはカラミンローションを塗布する。二次感染がある場合、抗生剤治療が必要。痒みには抗ヒスタミン剤の経口投与が有用。メトヘモグロビン血症の場合には、メチレンブルーの投与を考慮。
*経口の場合
(1)基本的処置
A.催吐:すべきでない(食道・消化管の刺激・熱傷が起きることがあるため)
B.希釈:直ちに牛乳(なければ水)を120~240mL(小児では15mL/kg以下)を飲ませて希釈する。
C.胃洗浄:出血・穿孔の可能性があるため、有用性については十分検討すべき。
痙攣対策を行った上で注意深く実施する。
(2)対症療法
A.痙攣対策:ジアゼパム静注
B.低血圧対策:輸液、昇圧剤、ステロイド剤等
C.代謝性アシドーシス:重炭酸ナトリウムで補正
D.潰瘍防止:H2-ブロッカー、制酸剤等

経過観察

咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状以外のすべての症状が消失するまで、経過観察を行う。遷延性に閉塞性細気管支炎や二次性気道感染を起こすことがあるので、注意深く観察する。
IV.3.ホスゲン(CG)
概要

窒息剤に分類される化学兵器。1915年にドイツ軍が塩素とホスゲンの混合ガスを初めて使用、その後ドイツ軍、連合国軍ともにホスゲンを使用した。第一次世界大戦中の化学兵器による死者の約80%はホスゲンによるものだったとされている。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された (日本は1970年に批准)。旧日本陸軍では1931年(昭和6年)に「あを一号」として武器として採用、大久野島において製造された経緯がある。1985年2月にベトナム軍がタイ・カンボジア国境で使用したロケット弾からもホスゲンが検出されている。1994年9月には、オウム真理教の信者4人がジャーナリストの江川紹子をホスゲンで襲撃した。1995年3月の強制捜査以降で一連のオウム事件が発覚した際に同事件の立件も浮上したが、被害が重大でないことを理由に起訴猶予処分となった。また、ホスゲンは別称二塩化カルボニルと呼称され、ポリカーボネイトやポリウレタン等の原料となる非常に重要な産業毒性物質の一つで、2008年5月、無許可でホスゲンを製造していたとして化学兵器禁止法違反(製造の無届け)の疑いで、経済産業省が石原産業を告発した例がある。無色、牧草または干し草臭のある気体で、加圧あるいは冷却により無色~淡黄色の液体となる。粘膜刺激作用が強く、特に吸入曝露により呼吸器(主に下気道)を刺激し、呼吸器症状が出現する。窒息剤の吸入毒性はホスゲン>クロロピクリン>塩素の順に強い。空気より重く、低所では特に危険性が高まる。咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛が一般的にみられる。肺水腫が出現するのが特徴的で、高濃度曝露では急激に出現するが、低濃度では8~24時間、ときに72時間まで遅れることがある。二次汚染を防ぐため、皮膚刺激症状のある除染が必要な患者や汚染された物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。

IV.3.1.物性

常温で無色の気体、加圧あるいは冷却により無色~淡黄色の液体である。生牧草または干し草に似た臭い、低濃度ではカビ臭い干し草の臭い、高濃度では刺激臭、室温では腐敗した果物臭がある。窒息剤の物性は、水溶性により、アンモニアの様に高い水溶性を示すものとホスゲンのように低い水溶性のもの、塩素のようにそれらの中間の水溶性を呈するものとに分けられる。臨床的には水溶性が高ければ上気道の病変が主体となり、低ければ下気道の病変が主体と成り、中間の水溶性であれば、上気道、下気道共に侵されることになる。このようにホスゲンは、水溶性が低いがゆえに症状の無い潜伏期にその後の呼吸悪化を予測することが困難となる。
[構造式]

[分子量]98.91
[比重]

液体:1.432、気体:3.4

[沸点]8.2℃
[融点]-118℃
[揮発度]

6,370,000mg/m3(20℃)

[溶解性]

ベンゼン、トルエンによく溶解し、四塩化炭素、酢酸に対しては約20%が溶解する。

[反応性]

水分と接触すると塩酸と二酸化炭素に加水分解される。
湿った空気中ではよりゆっくりと分解する。
COCl2 + H2O →2HCl + CO2
熱により、一酸化炭素と塩素に分解する。
COCl2 → CO + Cl2

[環境汚染の持続時間]

・地面汚染によって予想される有害作用の持続時間
気温10℃、雨の降っている中程度の風のある日 ;数分
気温15℃、晴れで、微風のある日       ;数分
気温-10℃、晴れで、風がなく、雪が降っている日;15分~1時間
・土壌中:ガス状ホスゲンは水分含量11%の土壌に強く吸着された。
比較的乾燥した土壌には強く吸着されるが、水分含量の高い土壌では揮発、二酸化炭素と塩酸とに加水分解がおこりうる。
・水中:水中に遊離すると、急速に揮発により失われる。同時にゆっくりと二酸化炭素と塩酸に加水分解される。
・空気中:空気中では分解されにくく、光分解せず、ヒドロキシラジカルやオゾンのような反応基とは反応しない。
IV.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態

ヒトの吸入毒性は 窒息剤の中では最も強い(ホスゲン>クロルピクリン>塩素)。高濃度のホスゲンを吸入すると早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解によって生じた塩酸によって刺激症状が生じる。

毒性
・ヒトの吸入毒性は ホスゲン>クロルピクリン>塩素の順に強い。
(30分間曝露時の致死濃度:ホスゲン;25ppm、クロルピクリン;119ppm、塩素;430ppm)
・3ppm以上では通常、上気道刺激、眼刺激があり、3ppm以下の曝露では直ちに症状を伴うことはないが、通常、24時間以内に遅発性の症状が出現する。
・50ppm以上では短時間曝露でも直ちに治療をしなければ即死、25ppmでは非常に危険、低濃度長時間曝露(例えば3ppm/170分)で致死的となることがある。
・眼刺激性や臭いは中毒濃度の警告とはならない。臭いを感じる濃度は、症状を来たす濃度よりも5倍以上高いので、危険な濃度を察知することにならない。臭い閾値:0.5ppm
・小児は、気道の直径が小さいので、成人よりもより感受性が高い。そのうえ、体重あたりの分時換気量が大きく、避難にかかる時間も長くなりがちであるため、重症化しやすい。同様に、上気道や眼の刺激症状が少ないので、それだけ曝露時間が長くなってしまう。
・水と接すると分解されるので、食物や飲料水への混入は考えにくい。

[中毒量]

吸入ヒト半数不能量:1,600mg-分/m3
吸入ヒト;TCLo:25ppm/30分

[致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):3,200mg-分/m3 (推定)
吸入ヒト;LCLo:25ppm/30分
吸入ヒト;LCLo:50ppm/5分
吸入ヒト;LCLo:♂360mg/m3/30分

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

ホスゲン CAS: 75-44-5
ppm
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 NR NR NR NR NR
(不快レベル)
AEGL 2 0.6 0.6 0.3 0.08 0.04
(障害レベル)
AEGL 3 3.6 1.5 0.75 0.2 0.09
(致死レベル)

NR:データ不十分により推奨濃度設定不可
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

(参考)
許容濃度:LV-TWA::0.1ppm(約0.40mg/m3)
OSHA-PEL:0.1ppm
IDLH::2ppm
中毒作用機序
・呼吸器(主に下気道)に対する刺激作用
上気道では加水分解を受けにくいので、刺激は少ない。
ホスゲンが細気管支や肺胞に達して水分に触れると、加水分解が起こり塩酸を生じ、肺水腫、気管支肺炎、まれに肺膿瘍を引き起こす。肺毛細血管の透過性が亢進し、血漿成分が肺間質や肺胞内に漏出し、肺水腫を起こす。循環血漿量の30~50%が肺胞内に漏出し、”陸上溺死”の状態になり、血液濃縮、循環障害、組織低酸素をきたす。
・ホスゲンによる肺障害の機序として、以下の説もある。
生じた塩酸が関与するのはわずかで、主にアシル化反応による。肺水腫の発現は肺ATP濃度、Na-K ATPase活性の低下や他の肺酵素阻害と相関する。
・曝露を受けた動物では、肺に好中球流入が起こる。サイトカインやフリーラジカル等の反応性メディエイターは肺障害の原因物質と考えられている。
・皮膚、眼に対する刺激作用
液化ホスゲンは皮膚につくと化学熱傷、眼に入ると角膜混濁を起こすことがある。
体内動態

[吸収]

ガスは気道組織に侵入し、肺からわずかに直接吸収される。

[代謝]

吸入すると、細気管支、肺胞などに侵入した後、ここで水分と接触して徐々に分解を受け、塩酸と二酸化炭素を生じる。ホスゲンは水分と速やかに反応するが、組織中の遊離アミンやSH基などとより速やかに反応するので、高濃度曝露時に未反応のホスゲンが全身循環に入るとの考えは疑わしい。

[排泄]

加水分解で生じた塩酸および二酸化炭素はそれぞれ腎臓、肺から排泄される。
IV.3.3.症状

概要

一般的に曝露後数時間~24時間で咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛などが出現する。極めて少量曝露の場合、数時間~24時間後に激しく運動すると、軽度の息切れがみられるが、後にわずかな運動だけでも息切れすることがある。少量曝露の場合、曝露後数日経過して肺炎が出現することがある。大量曝露では、数時間で重度の咳、呼吸困難、喀痰を伴う肺水腫が出現することがある。極めて大量曝露の場合、まれに数分以内に喉頭痙攣が出現し、死亡することがある。曝露がなくなると、症状は消失するが、高濃度の場合には症状が再燃し、肺水腫を引き起こすことがある。>50ppm/分では1~4時間以内、<50ppm/分では8~24時間以内に症状が再燃することがある。
初期症状の発現はガス濃度に依存し、後期症状の重症度は濃度と曝露時間の積である総吸入量に依存する。

詳細症状
(1)呼吸器系:>3ppm:咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛が一般的にみられる。
<3ppm:上気道刺激はみられない(しかし遅発性の肺水腫を起こすことはある)。
胸部X線で、両側の間質性陰影と聴診上両側の断続性ラ音crackle聴取。
頻呼吸:浅い頻呼吸がみられることがあるが、濃度とは無関係で一貫性がなく、一般的に前兆ではない。
肺水腫:高濃度曝露では1~2時間、中等濃度曝露では4~6時間、低濃度曝露
では8~24時間以内に胸部X線検査で、肺水腫像がみられることがある。72時間まで遅れることもある。
(大量曝露)呼吸不全(重度の呼吸困難)、持続性の咳、血痰が一般的で、曝露がなくなると消失するが、肺水腫が進行するにつれて再び出現する。
(遅発症状)咳、多量の泡沫状喀痰、進行性の呼吸困難、重度のチアノーゼ、胸部X線所見でびまん性陰影、血液ガス異常、湿性ラ音・水泡音等
(二次感染)曝露3~5日後に二次感染による肺炎が明らかとなることがあり、致死的合併症となることもある。
慢性肺気腫、慢性気管支炎、気管支拡張症、肺線維症を来たす。
症例報告では、数週間で呼吸器機能は正常範囲内に戻るが、完全な回復には数年かかったという。
(2)循環器系: 低血圧、頻脈、心不全(肺水腫の合併症としてみられることがある。)
(3)神経系 :不安、見当識障害、昏睡、痙攣
(4)消化器系:(高濃度曝露)嘔気、嘔吐
(5)泌尿器系:アルブミン尿、無尿、血尿を伴う腎障害が起きることがある。
(6)眼:(ガス)>3ppm:眼のヒリヒリ感、流涙(一般的)、結膜充血、眼瞼痙攣
<3ppm:眼刺激作用はない。
(液体)眼に入ると、強い眼刺激作用、角膜混濁、穿孔(1例報告)
(7)鼻:>3ppm:鼻腔の灼熱感
<3ppm:鼻腔の粘膜刺激症状はないが、遅発性の強い作用を示すことがある
(8)喉:喉頭浮腫;喉頭蓋・声帯の浮腫
>3ppm:咽喉刺激、咽喉・口腔内の発赤、胸部圧迫感(一般的)
(9)皮膚:液化ガスが皮膚につくと、重症の皮膚刺激、皮膚熱傷、凍傷
(10)血液:血液濃縮;毛細血管からの血漿漏出に伴って起こる。低酸素血症、多血症
(11)酸-塩基平衡:呼吸性アシドーシス、呼吸性アルカローシス、代謝性アシドーシス;病態により一貫していない。
(12)感染/免疫抑制:ラットで、インフルエンザウイルス感染の重症化・長期化、免疫力抑制が認められた。
検査
・動脈血液ガスモニター、肺機能検査、胸部X線検査を行う。
・大量曝露時は作用が遷延することがあるので、継続的に胸部X線検査を行うのが望ましい。
・血中ホスゲン濃度は臨床的には有用ではない。
IV.3.4.治療

概要

特異的解毒剤・拮抗剤はない。基本的処置を行った後、対症療法を行う。呼吸・循環器機能の維持管理を行う。

詳細
*吸入した場合
ホスゲンのガスに曝露されて皮膚にも眼にも刺激症状が無い患者に対して、除染は不要である。むしろ、このような被災者は除染なしに直接、コールドゾーンに誘導
すべきである。
(1)基本的処置
・新鮮な空気の下に移動
・呼吸不全をきたしていないかチェック。臥位で呼吸が苦しければ、起坐位にする。
・保温し、安静を保つ。
・曝露が疑われる場合、少なくとも6時間は経過観察する。
・厳格な運動制限と安静
少しの運動でも臨床的な潜伏期を短くし、呼吸器症状を悪化させる。有症状者に運動をさせれば、死を含む急激な悪化を覚悟しなければならない。従って、厳格な運動制限が強く推奨される。
(2)対症療法
A.咳や呼吸困難のある患者には静脈路を確保し、必要に応じて気道確保、酸素投与、人工呼吸等を行う。小児で吸気性喘鳴(stridor)がひどくなるようであれば、エピネフリンの吸入を考慮する。
B.肺水腫対策:・動脈血血液ガスをモニターするなど呼吸不全の発生に留意する。
呼吸不全が進行する場合は人工呼吸(持続的陽圧呼吸)が必要。
C.実験的治療法:以下の治療をヒトの肺水腫治療に使用するにはさらに研究が必要。
・ヘキサメチレンテトラミン:(ヒト、動物)ホスゲン曝露前に予防的に投与しない限り、死亡率、肺への作用を減少させることはない。
本剤は第一次世界大戦当時、ホスゲン用防毒マスク吸収缶の中に中和剤の1つとして入っていた。
・N-アセチルシステイン:(ウサギ)気管内投与し、ホスゲン曝露後の肺水腫の発生を低下させた。
・アミノフィリン、テルブタリン、DBcAMP(dibutyryl adenosine 3,5-cyclic monophosphate)、イソプロテレノール:(ウサギ)曝露後投与、曝露前投与で肺水腫の予防に有用であった。
・その他:(イヌ)酸素投与、炭酸水素ナトリウムは代謝性アシドーシスの補正に有用であった。サーファクタントエアゾールは肺合併症を改善させる可能性はあるが、肺水腫に対する効果は不明。
*眼に入った場合
(1)基本的処置:大量の微温湯で少なくとも15分間以上洗浄する。
(2)対症療法:刺激感や疼痛、腫脹、流涙、羞明などの症状が洗浄後も残る場合には眼科的診療が必要。
*皮膚に付着した場合
(1)基本的処置:付着部分を石鹸と水で徹底的に洗う。
(2)対症療法:洗浄後も刺激感や痛みが残るならば医師受診。
必要ならば、上記吸入の場合に準じて治療する。
A.化学熱傷:・患部は愛護的にケアする。
・患部や損傷のある四肢は高挙し、荷重させない。
・初期に明らかな組織壊疸がない限り、外科的処置は最後の手段とすべき。

経過観察

・予後を左右する重要な因子は肺水腫と二次感染で、二次感染を起こさず48時間以上経過すれば、以降は改善に向かう。
・24~48時間生存すれば、一般的に予後は良好と考えられる。
・回復後、後遺症は起こらないとされているが、まれに肺気腫、慢性気管支炎、気管支拡張症、肺線維症が残ることもある。
・長期的な肺機能障害として反応性気道疾患群 (Reactive Airway Dysfunction Syndrome: RADS)を来たすことが知られる。
IV.4.ジホスゲン(DP)
概要

窒息剤に分類される化学兵器。第一次世界大戦中、ドイツ軍は化学兵器(窒息ガス)として最初は塩素を使用していたが、塩素防毒マスクが開発されたため、当時のガスマスクでは防げない毒ガスとしてホスゲンに切り替えた。初めてホスゲンが使用された数か月後に、ジホスゲンは化学兵器として開発された。
ジホスゲンは、ホスゲン対応のガスマスクのフィルターを破壊するためにクロロホルムを加え手合成したものである。環境中では、ホスゲンとクロロホルムに分解し、中毒作用を示す。クロロホルムにより、流涙などの粘膜刺激症状を示すが、クロロホルムによる全身中毒症状を示すことは無い。最初に記録された戦場での使用は1916年である。常温で液体のジホスゲンの取り扱いの危険性は常温で気体のホスゲンより低い。そのため、ホスゲンが必要な場合にはジホスゲンの状態で(密封タンクなどで)輸送し、使用場所で分解させることによってホスゲンを得るといったことも行われる。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用禁止が議決された(日本は1970年批准)。
常温では無色の液体で、ホスゲンに似た刈りたての干し草臭がある。アルカリ物質、水分との反応、加熱などによって分解し、ホスゲンを生じ、中毒作用を示す。粘膜刺激作用が強く、特に吸入暴露により呼吸器(主に下気道)を刺激し、呼吸器症状が出現する。窒息剤の吸入毒性はホスゲン>クロロピクリン>塩素の順に強い。ホスゲンは空気より重く、低所では特に危険性が高まる。咳、息切れ、呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛が一般的にみられる。肺水腫が出現するのが特徴的で、高濃度暴露では急激に出現するが、低濃度では8~24時間、ときに72時間まで遅れることがある。二次汚染を防ぐため、皮膚刺激症状のある除染が必要な患者や汚染された物品と直接接する者は防護を怠ってはならない(レベルC防護装備が必要)。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。

IV.4.1.物性

常温では無色の液体。ホスゲンに似た刈り立ての干し草臭、刺激臭がある。
[構造式]

[分子量]197.83
[比 重](液体)1.6525(14℃)
[沸 点]

128℃(760mmHg) 常温では液体

[融 点]-57℃
[蒸気圧]10mmHg(20℃)
[溶解性]

水に不溶、アルコールにわずかに溶ける、エーテルに非常によく溶ける

[反応性]

室温で安定。
加熱により(約300℃で)分解し、ホスゲンを発生する。
有孔物質、活性炭、アルカリ性物質、温水などにより分解し、ホスゲンを発生する。 水中で分解する。
IV.4.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
分解してホスゲンを生じる。
吸入、経口摂取いずれも非常に毒性が強く、組織に対して強い刺激性がある。
・眼刺激、上気道刺激、暴露した表面の化学傷
・大量暴露では通常、肺水腫が出現する。
・眼刺激は暴露がなくなった後もしばらく続く。
・皮膚感作が起こることがある。

[中毒量]

吸入ヒト半数不能量:1,600mg-分/m3

[致死量]

吸入ヒト半数致死量(LCt50):3,200mg-分/m3
中毒作用機序
分解してホスゲンを生じ、中毒作用を示す。
詳細はホスゲンのIV.3.2.項を参照。
体内動態
分解してホスゲンを生じる。
詳細はホスゲンのIV.3.2.項を参照。
IV.4.3.症状

ホスゲンよりも、流涙が強い。
詳細はホスゲンのIV.3.3.項を参照。

IV.4.4.治療

特異的解毒剤・拮抗剤はない。基本的処置を行った後、対症療法を行う。
呼吸・循環器機能の維持管理を行う。
詳細はホスゲンのIV.3.4.項を参照。

V.催涙剤
V.1.クロロアセトフェノン(CN)
概要

CNはCSCACROCと同じく、催涙剤に分類される。暴徒鎮圧用あるいは護身用スプレーとして使用されている。 化学名クロロアセトフェノンで、無色または黄色~茶色の結晶性固体である。刺激臭があり、低濃度蒸気はリンゴの花の香りに似ている。水溶液中で安定である。CNは1871年にドイツの Graebeにより初めて合成され、第一次世界大戦末期の1918年に米国において毒ガス(催涙剤)として開発された。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された(日本は1970年批准)。CNはCSが開発されるまで主要な催涙剤であった。わが国においても旧日本陸軍が1931年(昭和6年)に「みどり剤二号(みどり剤一号は臭化ベンジル)」として制式化され、広島県大久野島で製造・貯蔵された。なお、旧海軍では一号特薬と呼称している。
ベトナム戦争では米軍・南ベトナム政府が使用した。CNをさらに強化する目的でCNB (CNにcarbon tetrachloride、benzeneを配合したもの)、CNC(クロロアセトフェノンをクロロフォルムに溶かしたもの)、CNS(CN、クロロフォルム、クロルピクリンの合剤)が作成されたが、CSのほうが効果がありかつ毒性が低いので、CSにとって代わられた。1970年前後に日本でも警察機動隊がデモ鎮圧のために使用した。溶解し、充填した製品が日本に輸入されていることが確認されている。護身用として使われるものには、TW®シリーズ、メイス®などが知られ、口紅型、ペン型、ライター型、警棒型など種々の形があり、容器に「CN」と表示されているものもある。護身用スプレーは、最近では、カプサイシンやペッパースプレーが広く使われるようになっている。
催涙作用はCR> CS> CN> CAの順に強く、吸入毒性はCN > CS> CRの順である。曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じる。通常、作用は一過性であるが、密閉された場所で曝露されると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現し、死亡の可能性もある。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。

V.1.1.物性

無色の結晶、黄色~茶色の固体。鋭い、刺激性の、強烈な、花のような臭いがある。
低濃度蒸気はリンゴの花の香りに似ている。
[構造式]

[分子量]154.59
[比重]1.3
[沸点]244-245℃
[融点]54℃
[凝固点]20-59℃
[蒸気圧]

5.4×10-3mmHg(20℃)

[揮発度]105mg/m3(20℃)
[引火性]可燃性あり
[溶解度]

水にはほとんど不溶。アルコール、エーテル、ベンゼンによく溶ける。
アセトン、二硫化炭素に溶ける。

[反応性]

水にほとんど溶けず、はなはだ安定で、水と煮沸しても加水分解しない。
炭酸ナトリウムの温水溶液によって加水分解し、無害の物質 (C6H5COCH2OH)を生じる。
熱せられると爆発性のある蒸気を発生させる。従って、容器を熱すると爆発の可能性がある
護身用スプレー:
剤形:口紅型、ペン型、ライター型、ピストル型、警棒型など種々
容量:携帯用に20~75mLの小型のものが多いが、事務所・店舗用に400mL、 520gと大型のものもある。
表示:容器に”CN”と表示されているものもあるが、日本では表示基準は定められていない。
V.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
・最小中毒量、最小致死量は確立されていない。
・毒性は濃度、粒子径、曝露時間に依存する。
直径約0.3-0.5μの粒子が噴霧されると末梢気道にまで入り込む。
・刺激作用は湿度が高まると強くなる。
・加熱すると分解し、有毒フューム Cl-を発生する。
・臭い閾値:0.1mg/m3 (弱い臭い;0.1020mg/m3)
(強い臭い;0.15mg/m3)

[中毒量]

吸入ヒト;TCLo:20mg/m3 咳
ヒト不能濃度:5-15mg/m3、5~20mg/m3
軍用有効濃度:>約10mg/m3
刺激作用:>0.15-0.4mg/m3
催涙作用:>0.3-0.4mg/m3

[致死量]

吸入ヒト;LCLo:159mg/m3 /20M、 8500mg/m3 /10M
吸入ヒト推定半数致死量(LCt50):10,000mg-分/m3

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)] 未設定
[その他の毒性]

(参考)
許容濃度: ACGIH-TLV-TWA;0.05ppm(約0.32mg/m3 )
OSHA PEK-L-TWA一過性限界値:0.05ppm(約0.3mg/m3 )
NIOSH-IDLH:3ppm:100mg/m3
中毒作用機序
・活性化されたハロゲン基を持つ SN2(2分子置換反応)アルキル化剤で、SH基や求核性官能基と強く結合する性質があり、眼粘膜や鼻粘膜の知覚神経終末でSH含有酵素を阻害する。その結果、疼痛、流涙、鼻汁、くしゃみなどを引き起こす。
・阻害された酵素活性は速やかに賦活されるため、通常、作用は一過性であるが、長時間または高濃度曝露では肺水腫など重篤な作用を引き起こすことがある。
・CNの大量曝露では皮膚・粘膜と接触時に遊離された塩素原子が塩酸に還元され、局所の刺激や損傷の原因となる。
・CNエアゾールをラットにLC50値の1/10の濃度で吸入させた実験で、肺サーファクタントの減少、細気管支上皮の細胞変性、肺胞中隔壁の肥厚が認められ、CNの吸入毒性が主に肺の損傷によることを示唆している。
・吸入のほか、可能性として食物や飲料に混ぜて汚染させることも想定される。
体内動態

[吸収]

局所で吸収され、刺激症状を呈する。催涙作用は極めて速やかに出現する。
V.1.3.症状

概要

・曝露後、直ちに眼の灼熱感、疼痛、流涙などが生じる。これらは通常、30分位で沈静化するが、眼瞼痙攣や発赤、腫脹が1~2日間みられることもある。
・高濃度では、角膜剥離を伴う化学損傷を引き起こすことがある。
・眼症状に加えて、鼻刺激感、鼻漏、咳、くしゃみ、胸部絞扼感、舌・口腔の灼熱感、金属味、流涎、嘔気、嘔吐、声門痙攣等がみられることが多い。これらの症状は曝露後、数週間続くことがある。
・皮膚に付くと、灼熱感、紅斑が一般的にみられ、皮膚炎や高濃度では化学損傷を引き起こすことがある。
・密閉された場所で曝露されると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現し、まれに死亡することもある。
・8時間~数日間の潜伏期を経て、急性肺水腫を引き起こすことがある。
詳細症状
(1)呼吸器系:
咽喉痛、咳、くしゃみ、胸部絞扼感;曝露直後より起こるのが特徴的で、曝露後数週間続くことがある。
声門痙攣;刺激作用のために曝露直後より起こることがあるが、 1-2日間遅れて出現することもある。
気管支漏
喉頭気管気管支炎、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫;
密閉空間での曝露後、1-2日遅れて出現することがある。
(2)循環器系:頻脈、血圧上昇(パニックによる恐怖感や疼痛により起こる)
症状が遷延する例もある。
(3)神経系:興奮、失神;パニックによる恐怖感や疼痛により起こる。
(4)消化器系:舌・口腔の灼熱感、金属味、嘔気(一般的)
嘔吐;時にみられる。
流涎
(経口摂取)上腹部不快感、胃腸炎
食道及び消化管の刺激または熱傷が起こることが予想される。
(5)泌尿器系:腎尿細管障害;催涙剤製造工場の爆発事故で死亡した労働者で腎障害を起こしたとの逸話的報告がある。
(6)眼:眼の灼熱感、疼痛、流涙、複視、重篤な結膜炎
眼瞼痙攣、発赤、腫脹、角膜剥離を伴う化学損傷
角膜混濁、大量曝露で永久的な混濁
動物で永久的な角膜損傷や眼壊死の報告がある。
閉所で使用された場合、失明の可能性もある。
(7)皮膚:灼熱感と刺激感、紅斑、疼痛、水泡(一般的、特に皮膚が湿っていると症状が強く出る) 皮膚炎、化学損傷
(8)鼻:初め、鼻刺激感(ヒリヒリ感)、鼻充血、鼻漏
(9)免疫:過敏反応
(10)血液:白血球増多症;CN曝露後、白血球数が20,000/mm3に増加し、数日間続くことがある。
検査
・呼吸器症状がある患者では、動脈血血液ガスモニター、胸部X線検査、肺機能検査を行う。
V.1.4.治療

概要

特異的な解毒剤や拮抗剤はないので、対症療法を行う。
咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状のみがみられる患者は曝露場所を離れるだけで、 通常、治療を必要としない。症状がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。

詳細
*吸入の場合
(1)基本的処置
・新鮮な空気の下に移動
・呼吸不全をきたしていないかチェック
・保温し、安静を保つ
(2)対症的治療
・咳や呼吸困難のある患者には静脈路を確保し、必要に応じて気道確保、酸素投与、人工呼吸等(ただし、直接口対口呼吸は行わず、必ずポケットマスク等を使うか、バッグ・バルブ・マスクを使用)を行う。
・呼吸困難が数時間続くなら入院させ、気管支痙攣や肺炎の進行について観察する(胸部X線、動脈血液ガスを持続的にモニターする)。
・抗生物質、ステロイドの予防的投与はおそらく有効ではない。
・気管支痙攣や喘鳴がある場合、β2刺激薬の吸入治療を考慮する。
・肺疾患の既往歴のある患者では症状が重篤化あるいは遷延する可能性があるので注意が必要である。アミノフィリンの投与やβ2刺激薬(サルブタモール等)の吸入を必要とすることがある。
*眼に入った場合
(1)基本的処置
直ちに大量の流水または生理食塩水(室温)で15分以上洗眼する。
眼はこすらない。洗眼する場合には、剤の小粒子や容器の破片などが眼に入っていないかを確認する。
(2)対症的治療
・刺激感、疼痛、腫脹、流涙、羞明が続く場合は、眼科的診察が必要。
・角膜剥離についてフルオレセイン染色など検査する。
抗生物質やステロイド剤の点眼、鎮痛剤の投与、散瞳薬が必要となることもある。
*皮膚についた場合
(1)基本的処置
・汚染された衣服を脱がせ、直ちに刺激の少ない石けんと大量の流水で十分に洗浄する。水が少ないと、刺激を増大することがある。または炭酸水素ナトリウム希釈液で洗浄する。次亜塩素酸溶液は皮膚の損傷を悪化させるので使用しない。
・皮膚からの薬剤除去速度が非常に重要である。
・刺激感や疼痛がある場合、医師の診察をうける。
(2)対症的治療
・水泡がある場合は生理食塩水のみで洗浄する。
・抗生物質やステロイド剤の塗布、痒みには抗ヒスタミン剤の経口投与および熱傷治療を行う。
・必要であれば、破傷風予防の処置を行う。
*経口の場合
(1)基本的処置
・催吐:行わない(食道、消化管に刺激、損傷が起きることがあるため)。
・胃洗浄:摂取後早期の場合、注意深く胃洗浄する。
痙攣がある場合は痙攣対策を行った上実施する。
・活性炭・下剤投与
(2)対症的治療
・食道、消化管の刺激症状、化学熱傷について注意深く観察する。
・これらの徴候がみられた場合、内視鏡検査を行う。

経過観察

・通常、約30分で鎮静化するが、症状が続く場合、1~2日間観察する。
高濃度曝露の場合、数週間の経過観察を要することもある。
V.2.オルトクロロベンジリデンマロノニトリル(CS)
概要

CSは非致死性の催涙剤のひとつである。CSは1928年英国の CorsonとStoughtonによって合成され、両者の頭文字をとって名付けられた。1960年代までに催涙剤として世界的に採用され、特にベトナムで米軍・南ベトナム政府により多量に使用された。またCN同様、暴徒鎮圧用に用いられる。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された (日本は1970年に批准)。粉末スプレーや溶剤に溶かしたスプレーがある。化学名o-クロロベンジリデンマロノニトリルで、胡椒様臭のある白色の結晶性固体。速やかに加水分解する。催涙作用はCR>CS>CNCAの順に強く、吸入毒性はCN>CS>CRの順である。曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じる。通常、作用は一過性であるが、密閉された場所で曝露すると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現することがある。構造中にシアンを含むが、体内で遊離されるシアン化合物による中毒は起こらないと考えられる。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。しかし、密閉された空間での使用など誤用された場合、死亡例も報告されている。また、催涙ガス弾が直接顔面に当たるなどして失明した例、頭部に当たって植物状態になった例など後遺症も報告されている。また、将棋倒しによる死亡の可能性もあるが、南米ベネズエラの首都カラカスのナイトクラブで2018年6月、催涙ガス弾が爆発し、未成年8人を含む17人が死亡した。何者かが催涙ガス弾を爆発させたとみられる。客が出口に殺到し、押し合う形になったという。Haarらによると、OCをはじめとする催涙剤は、暴徒鎮圧には限られた効果しかなく、疾病罹患はもとより死亡例を出すことすらあり、使用すべきではないとしている。

V.2.1.物性

白色の結晶性固体、胡椒様臭がある。
[構造式]

[分子量]188.62
[沸点]93-95℃
[融点]310-315℃
[蒸気圧]

0.0045 Pa(≒3.4×10-5mmHg)(20℃)

[揮発度]無視しうる程度
[安定性]

比較的速やかに加水分解する(半減期;15分/25℃)

[溶解正]

水に不溶。
アセトン、ジオキサン、塩化メチレン、酢酸エチル、ベンゼンに溶ける。

[環境汚染の持続時間]

土壌に粉末を散布した場合、何週間も活性が残存する。
V.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
・催涙作用はCNの約10倍であるが、毒性は低い。
CNと類似の作用であるが、作用はCNより速やかにしかも低濃度で現れる。
・最小中毒量、最小致死量は確立されていない。
・毒性は濃度、粒子径、曝露時間に依存する。
・刺激作用は湿度が高まると強くなる。
・製品の毒性は使用されている溶剤の種類・性質によって影響を受ける。
・加熱すると分解し、有毒フューム Cl-、NOx、CN-を発生する。

[ヒト中毒量]

催涙作用:>0.004mg/m3
ヒト不能濃度:1-5mg/m3
ヒト半数不能濃度(1分間曝露時):10mg/m3
軍用有効濃度:>約1mg/m3
吸入ヒト最小中毒量;TCLo:1500μg/m3/90M 結膜刺激、咳

[ヒト致死量]

吸入ヒト推定半数致死量(LCt50):25,000~150,000mg-分/m3
吸入ヒト致死量;LC:60x103mg/M/m3(推定)
経口ヒト半数致死量(LD50):約200mg/kg または 14g/人

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

催涙ガス CAS 2698-41-1
mg/m3
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 NR NR NR NR NR
(不快レベル)
AEGL 2 0.083 0.083 0.083 0.083 0.083
(障害レベル)
AEGL 3 140 29 11 1.5 1.5
(致死レベル)
NR:データ不十分により推奨濃度設定不可
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

[その他の毒性]

刺激性:皮膚刺激性(ヒト 10mg/H):弱い刺激性あり
眼刺激性(ヒト♂ 5mg/m3/20S):強い刺激性あり
発がん性・催奇形性:現時点ではデータなし
動物実験の研究報告では、妊娠に影響は無かった。
頻回投与試験:吸入ラット(100mg/m3/6H/14D-I):催涙、死亡
吸入マウス(10mg/m3/6H/14D-I):死亡
腹腔内(160mg/kg/10D-I):肝臓重量・胸腺重量の変化
(参考)
許容濃度:TLV-TWA:0.05ppm(約0.39mg/m3)
OSHA PEK-L-TWA一過性限界値:0.05ppm(約0.4mg/m/ 3)
IDLH(生命に直ちに危険または死亡):2mg/m3
中毒作用機序
・活性化されたハロゲン基を持つ SN2(2分子置換反応)アルキル化剤で、SH基や求核性官能基と強く結合する性質があり、眼粘膜や鼻粘膜の知覚神経終末でSH含有酵素を阻害する。その結果、疼痛、流涙、鼻汁、くしゃみなどを引き起こす。
・阻害された酵素活性は速やかに賦活されるため、通常、作用は一過性であるが、長時間または高濃度曝露では肺水腫を起こすなど重篤となる。
・CSの大量曝露では皮膚・粘膜と接触時に遊離された塩素原子が塩酸に還元され、局所の刺激や損傷の原因となる。
・in vitro、in vivoでブラジキニンを産生する可能性があり、毒性への関与が指摘されている。
・体内で遊離されるシアン化物による中毒は実際には起こらないと考えられる。
体内動態

[吸収]

催涙作用は極めて速やかに出現する。

[分布]
[代謝]

・肝臓で代謝され、o-クロロベンズアルデヒドとマロノニトリルとなる。マロノニトリルはさらにチオシアネートとシアン化物に代謝され、o-クロロベンスアルデヒドは o-クロロ安息香酸と o-クロロ馬尿酸に代謝される。
・致死濃度のCSエアゾールを曝露させたイヌの血漿中に有意な量のシアン化物は出現しない。

[排泄]

・尿中に o-クロロ馬尿酸(主)、o-クロロ安息香酸(少量)が排泄される。
V.2.3.症状

概要

・曝露後、直ちに眼の灼熱感、疼痛、流涙などが生じる。これらは通常、30分位で沈静化するが、眼瞼痙攣や発赤、腫脹が1~2日間みられることもある。
・高濃度では、角膜剥離を伴う化学損傷を起こすことがある。
・眼症状に加えて、鼻刺激感、鼻漏、咳、くしゃみ、胸部絞扼感、舌・口腔の灼熱感、金属味、流涎、嘔気、嘔吐、声門痙攣などがみられることが多い。これらは曝露後、数週間続くことがある。
・密閉された場所で曝露すると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現し、まれに死亡することもある。
・皮膚に付くと、灼熱感、紅斑が一般的にみられ、皮膚炎や高濃度では化学損傷を引き起こすことがある。
・90例の症例分析では、61%に皮膚症状、57%に眼症状、40%に呼吸器症状、13%に胃腸症状、7%に神経学的症状を呈した。また、症状の持続期間は以下のとおりであった。
眼症状、呼吸器症状:数分から数時間
胸部絞扼感:1日間
反応性気道機能不全(Reactive Airways dysfubction syndrome:RADS): 数ヶ月から数年
詳細症状
(1)循環器系:頻脈、血圧上昇;パニックによる恐怖感や疼痛により起こる。
うっ血性心不全;成人で高濃度のCS曝露後に報告された例がある。
(2)呼吸器系:
・咽喉痛、咳、くしゃみ、胸部絞扼感;曝露直後より起こるのが特徴的で、曝露後数週間続くことがある。
・声門痙攣;刺激作用のために曝露直後より起きることがあるが、1-2日間遅れてみられることもある。
・気管支漏
・喉頭気管気管支炎、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫;密閉空間での曝露後、1-2日遅れて出現する。症状が遷延する例もある。
・喘息・アトピー歴のない21歳女性がCS曝露後2年間、咳、息切れを示した。
・4ヵ月男児が家屋内で2,3時間CS曝露後、15日間肺野の異常陰影が残存し、白血球増多症を示した。
・喘息患者、慢性気管支炎患者ではCS曝露により症状が悪化する。
(3)神経系:興奮、失神;パニックによる恐怖感や疼痛により起こる。
・頭痛;CSエアゾールを曝露した被験者4名中3名が頭痛を訴え、その内2名は曝露後24時間、頭痛が続いた。
(4)消化器系:舌・口腔の灼熱感、金属味、嘔気(一般的)
嘔吐;時にみられる。
流涎
(経口摂取)上腹部不快感、胃腸炎、腹部痙攣、下痢
(5)肝  :肝障害;CS重症中毒1例で報告がある。
(6)泌尿器系:
・腎尿細管障害;催涙剤製造工場の爆発事故で死亡した労働者で腎障害を起こしたとの逸話的報告がある。
(7)眼:眼の灼熱感、疼痛、流涙、一過性の眼圧上昇、複視、重篤な結膜炎、眼瞼痙攣、
発赤、腫脹、角膜剥離を伴う化学損傷
動物でみられたCNによる永久的な角膜損傷や失明はCSではみられなかった。
(8)皮膚:灼熱感と刺激感、紅斑(特に皮膚が湿っていると症状が強く出る)、皮膚炎、化学損傷
(9)鼻:鼻刺激感(ヒリヒリ感)、鼻充血、鼻漏
(10)免疫:過敏反応
V.2.4.治療

概要

特異的な解毒剤や拮抗剤はないので、対症療法を行う。
咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状のみがみられる患者は曝露場所を離れるだけで、通常、治療を必要としない。症状がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。
詳細
クロロアセトフェノン(CN)のV.1.4.項を参照。
V.3.ブロムベンジルシアニド(CA)
概要

CAは非致死性の化学兵器である催涙剤のひとつである。 CAは1881年に Reimerにより合成され、1914年に純品で単離された。第一次世界大戦中、フランス軍により「カーミット」の名称で初めて毒ガスとして使用されたが、現在は使用されることは少なく、催涙剤としての重要性は低い。 催涙剤としては、致死性が高いものの、びらん剤神経剤に比べると致死性は低く、中途半端なため、使われなくなった。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された(日本は1970年に批准)。
化学名α-ブロムベンジルシアニドBromobenzyl cyanide (BBC) で、黄色みを帯びた結晶性固体。酸っぱい果物臭がある。吸入毒性はCNにほぼ匹敵する強さであるが、催涙作用は弱く、CR>CS>CN>CAの順である。曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じる。通常、作用は一過性であるが、密閉された場所で曝露されると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現することがある。構造中にシアンを含むが、体内で遊離されるシアン化合物による中毒は起こらないと考えられている。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。しかし、密閉された空間での使用など誤用された場合、死亡の可能性もある。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。

V.3.1.物性

黄色みを帯びた結晶性固体、酸っぱい果物臭がある。
[構造式]

[分子量]196.05
[沸点]132-134℃
[融点]29℃
[蒸気圧]

1.2×10-2mmHg(20℃)、2.8×10-2mmHg(30℃)

[蒸気密度]6.8(空気=1)
[引火点]可燃性のありなし
[溶解性]

水にほとんど溶けない。アルコール、エーテル、クロロホルム、アセトン、他の一般的有機溶媒に溶ける。ホスゲン、クロロピクリンなどにも溶ける。

[反応性]

・水および湿気によって極めて徐々に分解する。
・空気に触れてもわずかに分解するのみで比較的安定。長時間貯蔵すると、徐々に分解して紅色を呈する。
・150℃以上に加熱すると、速やかに分解する。

[環境汚染の持続時間]

・持久度は通常開放地で3日、地中に浸透した場合は15~30日とされる。
V.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
毒性は濃度、粒子径、曝露時間に依存する。刺激作用は湿度が高まると強くなる。
最小中毒量、最小致死量は確立されていない。体内でシアン化物を多量に遊離することはないので、シアン中毒を起こすことは少ない。加熱すると分解し、有毒フューム Br-、NOx、CN-を発生する。臭い閾値(最小検出濃度):0.09mg/m3

[中毒量]

眼刺激作用:>0.15mg/m3
催涙作用:>0.3-0.5mg/m3

[致死量]

吸入ヒト推定半数致死量(LCt50):11,000mg-分/m3
推定致死量:0.90mg/L(30分)
(参考)
許容濃度:設定されていない。
中毒作用機序
クロロアセトフェノン(CN)のV.1.2.項を参照。
体内動態

[吸収]

催涙作用は極めて速やかに出現する。

[代謝]

シアン化物を多量に遊離することはない。
V.3.3.症状

概要

曝露後、直ちに眼の灼熱感、疼痛、流涙などが生じる。これらは通常、30分位で沈静化するが、眼瞼痙攣や発赤、腫脹が1~2日間みられることもある。高濃度では、角膜剥離を伴う化学損傷を起こすことがある。眼症状に加えて、鼻刺激感、鼻漏、咳、くしゃみ、胸部絞扼感、舌・口腔の灼熱感、金属味、流涎、嘔気、嘔吐、声門痙攣等がみられることが多い。これらの症状は曝露後、数週間続くことがある。 密閉された場所で曝露されると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現し、まれに死亡することすることもある。皮膚に付くと、灼熱感、紅斑が一般的にみられ、皮膚炎や高濃度では化学損傷を引き起こすことがある。
詳細症状
クロロアセトフェノン(CN)のV.1.3.項を参照。
V.3.4.治療

概要

特異的な解毒剤や拮抗剤はないので、対症療法を行う。
咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状のみがみられる患者は曝露場所を離れるだけで、通常、治療を必要としない。症状がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。
詳細
クロロアセトフェノン(CN)のV.1.4.項を参照。
V.4.ジベンゾオキサゼピン(CR)
概要

CRは催涙剤で、暴徒鎮圧・護身用スプレーである。1962年に合成され、新しく開発された催涙剤で、CSより毒性が低いことから暴徒鎮圧用に注目を集めている。しかし、実際にはあまり使用されていない。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された(日本は1970年批准)。
化学名ジベンゾオキサゼピンで、淡黄色の固体。水溶液中で安定で、水中でも刺激作用を保持している。催涙作用は催涙剤のなかでも最も強いが(CR>CS>CN>CA)、吸入毒性は低く、CN>CS >CRの順である。揮発性が低く、呼吸器(下気道)への作用がほとんどない点を除き、CNCSと同様の作用を示すと考えられる。曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じるが、通常、作用は一過性である。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。

V.4.1.物性

淡黄色の固体である。
[構造式]

[分子量]159.23
[融 点]72℃
[蒸気圧]

5.9×10-5mmHg(20℃)

[溶解性]

3.5×10-4モル/L(20℃)

[反応性]

水溶液中で安定(水中でも刺激作用を保持している)。

[環境汚染の持続時間]

環境中に残るとされている。
V.4.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
・催涙作用は最も強力であるが、毒性は最も低い。
作用は皮膚、眼に限局し、蒸気圧が低いため気道への作用はほとんどない。
・CRの吸入毒性はCNに比べて弱い。
CNでは密閉空間曝露でヒト死亡例があるが、CRではそのような報告はない。
非常に高濃度のCRエアゾール(78,200、 140,900、 161,300mg・分/m3)をラットに曝露してもごくわずかの肺損傷がみられるだけである。
・毒性は濃度、粒子径、曝露時間に依存する。
・刺激作用は湿度が高まると強くなる。
・最小中毒量、最小致死量は確立されていない。
・加熱すると分解し、有毒フューム NOxを発生する。
・臭い閾値:設定されていない。

[中毒量]

催涙作用:>0.002mg/m3

[致死量]

吸入ヒト推定半数致死量(LCt50):>100,000mg-分/m3

[その他の毒性]

刺激性:皮膚刺激性(ヒト 500μg/H):弱い刺激性あり
眼刺激性(ウサギ 5mg):弱い刺激性あり
発がん性:吸入マウス;204mg/m3/18W-I:発がん性あり
(参考)
許容濃度:設定されていない。
中毒作用機序
・皮膚・粘膜刺激作用:皮膚・粘膜の知覚神経終末受容体と局所的に反応し、曝露部位で疼痛、催涙作用を引き起こす。
・吸入毒性はCNに比べて弱い。
CRエアゾールをラットにLC50値の1/10の濃度で吸入させた実験で、肺の炎症反応は示したが、CNとは異なり、肺サーファクタントには影響を与えず、肺の組織形態学的変化は認められなかった。
体内動態

[吸収]

催涙作用は極めて速やかに出現する。
V.4.3.症状

概要

・曝露後、直ちに眼の灼熱感、疼痛、流涙などが生じる。これらは通常、30分位で沈静化するが、液が眼に入ると、眼瞼痙攣や発赤、腫脹が3~6時間続くことがある。液が鼻に入ると、鼻刺激感、鼻漏、口に入ると、舌・口腔の灼熱感、流涎、 嘔気、嘔吐などがいずれも一過性に出現することがある。
・皮膚に付くと、灼熱感、紅斑が一過性にみられるが、CNCSでみられるような皮膚炎や化学損傷は起きにくい。
詳細症状
(1)循環器系:頻脈、血圧上昇;パニックによる恐怖感や疼痛により起こる。
(2)呼吸器系:
・咽喉痛、咳、くしゃみ、胸の締めつけられる感じ;曝露直後より起こるのが特徴的で、曝露後数週間続くことがある。
・声門痙攣;刺激作用のために曝露直後より起こることがあるが、1-2日間遅れてみられることもある。
・気管支漏
・喉頭気管気管支炎、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫;密閉空間での曝露後、1-2日遅れて出現することがある。
・症状が遷延する例もある。
(3)神経系:興奮、失神;パニックによる恐怖感や疼痛により起こる。
(4)消化器系:舌・口腔の灼熱感、金属味、嘔気(一般的)
嘔吐;時にみられる。
流涎
(経口摂取)上腹部不快感、胃腸炎
(5)泌尿器系:
・腎尿細管障害;催涙剤製造工場の爆発事故で死亡した労働者で腎障害を起こしたとの逸話的報告がある。
(6)眼:眼の灼熱感、疼痛、流涙、眼圧上昇、眼瞼痙攣、発赤、腫脹
(7)皮膚:灼熱感と刺激感、紅斑(一過性、特に皮膚が湿っていると症状が強く出る)
皮膚炎や化学損傷は起きにくい。
(8)鼻:初め、鼻刺激感(ヒリヒリ感)、鼻充血、鼻漏
(9)免疫:過敏反応
検査
・呼吸器症状がある患者では、動脈血液ガスモニター、胸部X線検査、肺機能検査を行う。
V.4.4.治療

概要

特異的な解毒剤や拮抗剤はないので、対症療法を行う。
咳嗽などの軽度の呼吸器刺激症状のみがみられる患者は曝露場所を離れるだけで、通常、治療を必要としない。症状がみられる場合、酸素投与、その他の補助的治療を行う。
詳細
クロロアセトフェノン(CN)のV.1.4.項を参照。
V.5.カプサイシン(OC)
概要

OC(いわゆるpepper sprayでOleoresin Capsicumの略)はCNCSCACRと同類で、催涙剤に分類される。暴徒鎮圧用あるいは護身用スプレーとして使用されている。 一般名オレオレシンカプシカムで、トウガラシ抽出液である。主要成分はトウガラシの辛み成分のカプサイシン(結晶性アルカロイド)で、焼けるような味がある。OC5~13%を溶剤(アセトン、酢酸エチル、メチルアルコ-ル)に溶かし、充填した製品が日本に輸入されていることが確認されている。噴射剤には二酸化炭素、LPG、ダイフロン134aなどが使用されている。ペパーメイス®、ファーストディフェンス®、MK®シリーズ、ガーディアン®などが知られ、口紅型、ペン型、ライター型、警棒型など種々の形があり、容器に「OC」と表示されているものもある。用途としては、暴徒鎮圧、護身用、犬や熊への防御用としても使われる。歴史的には古くは17世紀の明代の中国で、唐辛子を燃やして、戦争に使ったという記録は残っているが、近代以降では、1973年、米国連邦捜査局(FBI)により護身用として使用されたのが最初だとされる。
曝露直後より、眼の灼熱感、疼痛、流涙が生じる。密閉された場所で曝露されると、気管支痙攣、気管支肺炎、肺水腫などが出現することがある。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。通常、曝露場所を離れるだけで、治療を必要としない。しかし、1993年以来、OCを使った逮捕中に70名の死者が出たと報告されている。人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルは、1990年代の初頭から100名以上がOCに曝露した後、死亡しているとしている。いっぽう、逮捕の過程で亡くなった例の大部分は、それが、直接OCの作用によるものかは疑問で他の原因があるとする意見もある。いづれにしても、OCの健康障害に関して大規模の前向きのコホート研究が必要とされる。

V.5.1.物性

焼けるような味がある。
[構造式]

[分子量]305.42
[沸 点]210-220℃
[融 点]65℃
[溶解性]

冷水にはほとんど不溶。
アルコール、エーテル、ベンゼン、クロロホルムによく溶ける。
二硫化炭素、濃塩酸にわずかに溶ける。石油エーテルに溶ける。
V.5.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
・強い皮膚粘膜刺激作用
・カプサイシンの皮膚刺激感受性は個人差が大きく、表皮角質層の厚さに依存する。

[中毒量]

・ヒト鼻粘膜にカプサイシン75μgを塗布すると、灼熱感、くしゃみ、鼻から漿粘液分泌を生じる。
・10-4モル以下の濃度で舌に灼熱感を生じる。

[致死量]

カプサイシン:ヒト経口推定致死量:0.5-5g/kg

[その他の毒性]

刺激性:ラット眼に50μg/mLを投与すると、明らかな疼痛と眼瞼痙攣を生じる。
(参考)
治療量:トウガラシ;成人、蠕動運動の促進に約60mg
多くの熱帯の国々の成人は食品として約3g/日摂取している。
許容濃度:
ACGIH-TLV-TWA;0.05ppm(約0.32mg/m3)
OSHA PEK-L-TWA一過性限界値:0.05ppm(約0.3mg/m3)
NIOSH-IDLH:100mg/m3
中毒作用機序
・カプサイシンは脂溶性のフェノール類で、強い粘膜刺激作用がある。ヒドロキシフェニル基、特に水酸基が強い辛味の原因と考えられている。
・神経に作用してサブスタンスPを遊離し、神経の脱分極を引き起こして血管拡張、平滑筋の興奮、知覚神経末端の活性化をもたらす。
・化学物質による痛覚、温覚の閾値を高める。
・気管支収縮作用:カプサイシンはin vitroでヒト気管支を収縮させる。
体内動態

[吸収]

カプサイシンはラット空腸から非能動輸送で吸収される。
カプサイシンの85%がラット消化管から3時間以内に吸収される。

[分布]

ジヒドロカプサイシンは肝ミクロゾーム蛋白と非可逆的に結合する(エポキシド代謝)が、中枢神経系には結合しない。
カプサイシンは血液脳関門を通過する。

[代謝]

主に肝臓のCyp(チトクロームP-450)系で加水分解される。
V.5.3.症状

概要

・皮膚粘膜刺激作用があり、眼、鼻、肺、皮膚に灼熱感が生じる。
・経口摂取すると、灼熱感が口腔内、食道、胃、腸など消化管全体に及び、排便時には肛門の灼熱感もある。下痢がみられることもある。
・OCスプレー吸入後、重篤な肺損傷を起こした例や死亡した例もある。
詳細症状
(1)呼吸器系:(吸入)灼熱感、肺刺激、咳
息切れ、喘鳴、呼吸困難、気管支痙攣、肺水腫が出現することがある。
生後4週児で無呼吸がみられた。
(慢性吸入)慢性気管支炎(気管支拡張症になることがある)
(2)循環器系:(吸入)生後4週児で血圧低下、心拍数170がみられた。
(ラット、注射)初め血圧低下、一過性に血圧上昇、ついで再び血圧低下が認められた(アドレナリン受容体またはコリン受容体いずれに対する処置も無効であった)。
(3)神経系:疼痛刺激閾値の増大;種々の化学的疼痛刺激に感じにくくなる。
(4)消化器系:嘔気、嘔吐、下痢、肛門の灼熱感
カプサイシン含有植物を噛むと、唇、舌、口腔粘膜に強い刺すような痛みを引き起こす。上皮細胞の腐肉形成、または軽度の粘膜出血が起こることがある。
(慢性)消化管上皮の損傷・破壊、粘膜表面は軽度紅斑~浮腫、微小出血を示す。
(5)その他:
*眼:眼に入ると、刺激感、流涙、刺痛、結膜炎、紅斑、角膜剥離
・OCスプレー曝露を受けた81名中、45名(56%)は眼の灼熱感、36名(44%)は結膜の充血、32名(40%)は紅斑、13名(16%)は流涙、7名(9%)は角膜剥離を生じた。
・OCスプレー曝露後、30名中7名(23%)にフルオレスセイン染色で角膜剥離が確認された。
*皮膚:皮膚に付くと、灼熱感、疼痛、紅斑が一般的にみられるが、水疱は伴わない。
(慢性・長期曝露)水疱、皮疹
手;トウガラシ加工労働者にみられる手の皮膚炎で、大半の症例は焼けるような感覚と軽度の紅斑を示すのみで、通常、熱傷はみられない。
トウガラシを毎日食べるタイの人々では、線維素融解性の増大、血液凝固能の低下がみられる。
検査
呼吸器症状がある患者では、動脈血液ガスモニター、胸部X線検査、肺機能検査を行う。
V.5.4.治療

概要

特異的な解毒剤や拮抗剤はないので、呼吸・循環管理等の対症療法を行う。
詳細
*吸入の場合
(1)基本的処置
・新鮮な空気の下に移動
・呼吸不全をきたしていないかチェック
(2)対症的治療
・必要に応じて気道確保、酸素投与等を行う。
・全身症状の出現について注意深く観察し、必要に応じて対症療法を行う。
・咳;麻薬、局所麻酔薬で軽減される可能性がある。
・気道抵抗の増大;抗コリン薬で拮抗できる。
・粉末を大量吸入し、重症の場合;気管内挿管を行い、洗浄や吸引を行う。
・呼吸障害にECMOを使って救命した例も報告されている。
*眼に入った場合
(1)基本的処置
・直ちに大量の流水で15分以上洗眼する。
眼はこすらない。
コンタクトレンズは直ちに外す。
(2)対症的治療
・刺激感、疼痛、腫脹、流涙、羞明が続く場合は、眼科的診察が必要。
・疼痛コントロールのために局所麻酔薬が必要となることもある。
カプサイシン50μg/Lに曝露した動物の眼を局所麻酔薬で治療すると、疼痛は軽減したが紅斑は変わらなかった。
*皮膚についた場合
(1)基本的処置
・カプサイシンは冷水よりも温水に溶けやすいので、刺激の少ない石けんと温水で曝露部位を数回洗う。
・カプサイシンはアルコールにもよく溶けるので、十分洗浄できない場合、損傷のない皮膚に対しては少量のアルコールを用いるのもよい。
・冷水洗浄は勧められるが、緩解が長続きしない。
(2)対症的治療
・食酢洗浄・浸漬(5%酢酸水溶液):皮膚(特に手)の刺激が緩解する。
手を30分以上浸す。重篤例では数時間の浸漬が必要となることがある。
・植物油浸漬:
冷たい水道水に浸すと疼痛は速やかに軽減されるが、植物油浸漬では疼痛の軽減が長く持続する。
・局所麻酔薬:リドカインゼリーが有効との報告がある。
リドカイン・プリロカインエマルジョン塗布後約1時間で疼痛が 軽減された。
49名の警察学校でのボランティアを被験者とした研究では、アルミニウムハイドロキサイド懸濁液、2%リドカインゲル、ベビーシャンプー、牛乳、水、の各群で疼痛緩和に差が見られなかったとの報告もある。
*経口の場合
(1)基本的処置
・A.催吐:通常、不要(刺激性があり、自然嘔吐、下痢を起こすことがある)。
・B.活性炭投与:但し、有効性は明らかでない
・C.下剤投与:不要(蠕動運動を引き起こすため)
(2)対症的治療
・必要に応じて対症療法を行う。

経過観察

皮膚曝露の重篤例では、疼痛は長時間持続することがある。
症状が続く場合、1~2日間観察する。
VI.催吐剤
VI.1.アダムサイト(DM)
概要

アダムサイトは吸入すると嘔吐を引き起こすため、催吐(嘔吐)剤に分類される。くしゃみ剤と言われることもある。アダムサイトが初めて合成されたのは、ドイツであったとされている。1918年に米国イリノイ大学のAdamsにより製造が完成し、その名にちなみ、アダムサイトと名づけられた。ベトナム戦争で用いられたアダムサイトと催涙ガスの混合物(米軍のいわゆるDM-CN)は特に催吐作用が強く、致死性がある。純品は常温で無臭の緑がかった黄色の結晶で、ほとんど揮発しない。通常、エアゾールとして微粒子を空中に散布する。散布時は無色無臭である。曝露数分後より、眼・鼻・咽喉の粘膜刺激、くしゃみ、咳などが出現する。作用は催涙剤に類似しているが、毒性は催涙剤より強い。構造中にヒ素を含むが、通常、全身性のヒ素中毒が起きるとは考えにくい。特異的な解毒剤・拮抗剤はないので、治療は対症的に行う。ジュネーブ議定書(1925年)で戦時使用の禁止が議決された(日本は1970年批准)。
嘔吐剤には、アダムサイト(DM)のほか、ジフェニルクロロアルシン(DA)ジフェニルシアノアルシン(DC)などが知られている。DADCは旧軍ではあか剤と呼ばれていた。嘔吐剤の目的は、暴徒鎮圧剤として使われる目的と、化学戦の際にガスマスクを外させる目的があった。

VI.1.1.物性

純品は常温で無臭の緑がかった黄色の結晶である。散布時は無色無臭であるが、煙が濃縮されると緑がかった黄色を呈する。DAは無色の結晶、DCは白色の固体、アダムサイト(DM)とDAは無臭だが、DCはニンニク臭、若しくはビターアーモンド臭がある。
[構造式]

[分子量]277.59
[比重]

1.65g/cm3 (20℃)

[沸点]410℃(分解)
[融点]195℃
[蒸気圧]

2×10-13mmHg(20℃)、4.5×10-11mmHg(25℃)

[揮発度]

0.02mg/m3、ほとんど揮発しない

[溶解性]

水にはほとんど溶けない。0.0064g/水100g(室温)
ベンゼン、キシレン、四塩化炭素にはわずかに溶ける。
有機溶媒ではアセトンに最も良く溶ける(13.03g/100g、15℃)。

[反応性]

水によって極めて徐々に加水分解する。
加熱すると加水分解して濃橙紅色の物質を生じる。
VI.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
・作用は催涙剤に類似しているが、毒性は催涙剤より強い。
・アダムサイトは有機ヒ素化合物であるが、通常の使用条件下では全身性のヒ素中が起きるとは考えられていない。しかし遺棄された場合には、環境中の砒素汚染が問題とされる。

[中毒量]

吸入ヒト半数不能量:22~150mg・分/m3、 8mg・分/m3-60分間曝露
眼刺激作用(TC50):0.5mg/m3
(TC50;1分間曝露時半数のヒトが刺激を感じる最低濃度)
最低刺激濃度;0.1mg/m3
呼吸器(下気道)刺激濃度;0.5mg/m3
嘔吐誘発量:確立されていないが、約370mg・分/m3 と推定されている。
(4.6~144mg・分/m3 では10%以下の人に嘔気が認められた。)

[致死量]

吸入ヒト推定半数致死量(LCt50):11,000mg・分/m3
吸入ヒト推定致死量(LC):15,000mg・分/m3
3,000mg/m3 に10分間曝露
650mg/m3 に30分間曝露
中毒作用機序
眼・粘膜刺激作用
眼・鼻・咽喉粘膜の知覚神経終末でSH含有酵素を阻害し、疼痛、流涙、くしゃみ、咳等を引き起こす。
体内動態

[吸収]

作用の出現は非常に速やかである。
(22mg/m3の濃度で一時的に行動不能となるのに要する時間は1分である)
VI.1.3.症状

概要

・恐怖心、不安感、不信感など様々な感情が被害者に噴出し集団ヒステリー状態となる。
・曝露数分後より刺激症状が出現する。軽度の場合、30分位で改善する。眼刺激、流涙、鼻・副鼻腔の疼痛、鼻汁(感冒様)、鼻つまり、頭痛、喉の焼けるような感じ、激しいくしゃみ、咳が出現する。次いで激しい頭痛、胸痛、胸部絞扼感が出現し、嘔気、嘔吐を催す。これらは通常、1~2時間で緩解する。頭痛、抑うつ、悪寒、嘔気、嘔吐、腹痛、下痢等の全身症状が、ときに曝露後数時間続く。
・汚染された食物を経口摂取すると、嘔気、嘔吐、下痢(血性)、脱力、めまいが起こる。
・アダムサイトの場合、医学的処置が必要となるのは被害者の1%未満である。
詳細症状
(1)呼吸器系:喉の焼けるような感じ、咳、胸痛、胸部絞扼感、呼吸困難
(高濃度)密閉された場所で曝露されると、肺水腫を含む重篤な肺損傷を引き起こし、まれに死亡することもある。
(2)神経系:頭痛(前頭部の激痛)、めまい、ふらつき、下肢の脱力、全身の震え
症状が進行すると、抑うつがみられることもある。
(高濃度)密閉された場所で曝露されると、運動失調、知覚異常、麻痺、意識喪失を引き起こすことがある。
(3)消化器系:流涎、嘔気、嘔吐、腹痛、下痢
(4)その他:
*眼:焼けるような感覚、流涙
(高濃度)密閉された場所で曝露されると、角膜壊死を引き起こすことがある。
*皮膚:野外では高濃度にならないため、通常、皮膚への作用はほとんどない。
(高濃度)焼けるような感覚、紅斑、疼痛、水疱形成、限局性腫脹
*鼻:鼻・副鼻腔の疼痛、鼻汁(感冒様)、鼻つまり、くしゃみ
*その他:悪寒(感冒様)、耳・顎・歯の痛み、体痛
検査
呼吸器症状がある患者では、動脈血血液ガス分析、胸部X線検査、呼吸機能検査を行う。
アダムサイトは、分解産物の測定が困難であるが、血中、尿中の有機砒素を測定することは意味があるとされる。
VI.1.4.治療

概要

特異的な解毒剤や拮抗剤はない。対症的に治療する。
詳細
*吸入の場合
(1)基本的処置
・新鮮な空気の下に移動
・呼吸不全をきたしていないかチェック
(2)対症的治療
・呼吸困難、喉頭痙攣がある場合、気管内挿管、酸素投与、人工呼吸が必要となることがある。
・嘔吐:制吐剤の投与
・頭痛:鎮痛剤の投与
・肺水腫対策
*眼に入った場合
(1)基本的処置
直ちに大量の流水で洗眼する。眼はこすらない。
(2)対症的治療
・洗浄後も刺激感が続く場合は、眼科的診察が必要である。
・眼科用ステロイド剤または局所麻酔剤の眼軟膏が必要となることもある。
*皮膚についた場合
(1)基本的処置
・汚染された衣服を脱がせ、皮膚刺激症状があるときには、石けんと大量の水で十分に洗浄する。
(2)対症的治療
・皮膚の炎症所見が1時間以上続く場合は、湿布を行った後、ステロイド剤含有クリームまたはカラミンローションを局所に塗布する。
参考)湿布は収斂作用のあるブロー液(U.S.P.の酢酸アルミニウム液)を40倍希釈して使用することが勧められている。
・二次感染があれば、抗生物質療法、痒みには抗ヒスタミン剤の経口投与が必要となることがある。

経過観察

回復に1~2日を要することがある。
喘息など肺疾患の既往歴のある患者は症状が悪化する可能性があるので、観察が必要である。
VII.無力化剤
VII.1.キヌクリジルベンザレート(BZ)
概要

BZとLSDに代表される無能力化剤(無力化剤)は、致死性は低いが、少量の曝露でも著しい精神障害をきたして、兵士が命令を認識したり遂行したりできなくなり、戦闘不能にすることを目的とするものである。
BZは、ムスカリン受容体マーカーの実験用試薬であるQNB(3-quinuclidinyl benzilate)と同物質である。BZは抗コリン剤で、いわゆるグリコール酸(glycolate)である。刺激性はなく、症状の発現が30分から20時間程度迄遅れるため、それまで曝露に気付かないこともある。エアゾールとして散布される。米軍は1960年代から化学兵器として保有した。加熱により分解してNOxフユームを発生するため、熱を発生するような兵器(ミサイル等)に搭載することもできる。しかし、症状発現までに時間を要する上に曝露によって狂暴性を帯びることがあることがわかり、化学兵器としては逆効果なため、1989年10月までに廃棄処理された。イラクが湾岸戦争当時に大量に保有していたAgent15は、BZと類似もしくは同一の物質とみられる。また、1995年7月ボスニア・ヘルツェゴビナにおける紛争において使用されたとされている。特異的解毒剤としてフィゾスチグミンがある(日本では未承認)。「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」に該当する物質である。室内、屋外で散布するときは、微細な粉状か、液体に溶かしてエアロゾル化して散布される。水、食料も汚染させることが可能である。

VII.1.1.物性

白色無臭の結晶である。
[構造式]

[分子量]337.45
[比重]
[沸点]320℃
[融点]164-167℃
[引火性]可燃性あり
[溶解性]

水溶性。プロピレングリコール、ジメチルスルホキシドに可溶

[反応性]

多くの溶剤中で安定
半減期 3~4週間(湿気がある大気中)
加熱により分解してNOxフユームが発生する。
熱に強い(ミサイル搭載可)
可燃性であるが爆発性は低い。
金属と反応して可燃性の水素ガスを発生する。
VII.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
中毒量と致死量の差が大きい。

[ヒト中毒量]

ヒトの中毒量は確立していない
・経口
静注もしくは筋注による毒性の80%
ヒト半数最小影響量(MED50)(軽度の認知力障害を起こす最小量):
2.5μg/kg(24時間以内に回復)
ヒト半数不能量:6.2μg/kg
(参考として類似の作用機序を持つアトロピンでは140μg/kg)
・吸入
静注による毒性の40~50%(直径1.0ミクロン粒子吸入の場合)
ヒト半数不能量:110mg・分/m3、112mg・分/m3

[ヒト致死量]

ヒトの致死量は確立していないが、LD50 は 2–5 mg/kgであると予測されている。
・吸入 ヒト半数致死量(LCt50):200,000mg・分/m3

[急性曝露ガイドラインレベル(AEGL, Acute Exposure Guideline Level)]

BZ CAS:6581-06-2
mg/m3
10分 30分 60分 4時間 8時間
AEGL 1 NR NR NR NR NR
(不快レベル)
AEGL 2 0.067 0.022 0.011 NR NR
(障害レベル)
AEGL 3 1.2 0.41 0.21 NR NR
(致死レベル)
NR:データ不十分により推奨濃度設定不可
AEGL 1(不快レベル):不快感を生じ、可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値
AEGL 2(障害レベル):避難能力の欠如や不可逆的で重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値
AEGL 3(致死レベル):生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡が増加する空気中濃度閾値

[その他の毒性]

刺激性:なし
発がん性:IARC発がん分類 未分類
(参考)
許容濃度:日本産業衛生学会勧告値;未設定
ACGIH勧告値;短時間曝露限界値(TLV-STEL)記載なし
時間荷重平均(TLV-TWA) 記載なし
中毒作用機序
1)抗コリン作用
・コリン作動性神経末端のムスカリン受容体でアセチルコリンと競合的に拮抗し、その作用を阻害する。
・平滑筋、心筋、外分泌腺、自律神経節、中枢神経系のムスカリン受容体でアセチルコリンの効果が遮断される。
・BZはアトロピン類似の作用(20倍以上)を示すが、中枢神経系に対する作用はアトロピンより強力で、記憶力、問題解決力、注意力、理解力を低下させる。
2)ニコチン性受容体ではアセチルコリンの作用を遮断しない。
体内動態

[吸収]

経口、吸入、経皮で吸収される。
バイオアベイラビリティ :経口 約80%
(静注と比較した吸収率) 吸入 40~50%(1ミクロン粒子)
経皮 5~10%(プロピレングリコール溶解液塗布)

[分布]

全身の組織に分布
血液脳関門通過性:あり

[代謝]

主に肝臓で代謝されると推定される。

[排泄]

未変化体及び代謝物は主として尿中に排泄される。
VII.1.3.症状

概要

いわゆる、抗コリントキシドロームを呈する。著しい精神障害(少量でも陶酔感~絶望感までの気分の変化、大量では著しい幻覚等)をきたす。症状出現は吸入後20時間以内(平均2時間)、経皮曝露では36時間程度まで遅れることがある。曝露量が多いと症状出現が早く、持続時間が長くなる。
第1期(0~4時間):散瞳、口渇、頻脈等のアトロピン様症状、軽度の中枢症状
第2期(4~20時間):混迷状態、運動失調、発熱
第3期(20~96時間):せん妄状態(刻々と変化する)
第4期(回復期):パラノイア、深い睡眠、覚醒、這う登る等の徘徊、失見当識
健常人では特に治療しなくても通常2~4日で回復するが、曝露量に依存する。
詳細症状
(1)循環器系症状
頻脈(後に正常もしくは徐脈となることがある)、不整脈(大量曝露時)
(2)呼吸器系症状
データなし
(3)神経系症状
運動失調、失見当識、混迷、めまい、幻覚、意識レベルの低下
脱力、理解力・判断力・注意力・記憶力の低下、言語障害
(4)消化器系症状
口渇、嘔吐、消化管運動の抑制
(5)泌尿器系症状
尿閉
(6)その他
眼:散瞳、視力障害
皮膚:皮膚の乾燥、紅潮
その他:発熱
検査
大量曝露時は心電図のモニタリングを行う
VII.1.4.治療

概要

解毒剤・拮抗剤としてフィゾスチグミンがあるが、日本では医薬品として承認されていない。経過観察、治療法選択の基準は以下の通りである。
・大量曝露でない限り、健常人では特に治療しなくても通常2~4日で回復する。
・暴れる場合は拘束が必要である。
・生命の危険があるのは、精神障害時の行動による傷害、高熱(特に高温多湿環境下、脱水状態)、大量曝露による不整脈や電解質異常を伴う昏睡時等である。

治療の概要

重症(心・呼吸器障害、高熱が出現している場合);
一般的救命処置、体温コントロール
フィゾスチグミン投与(但し、日本では医薬品として承認されていない)
(体温及び他のバイタルサインが適切に管理された場合のみ投与を考慮)
中等症(抗コリン症状が著明または悪化している場合);
フィゾスチグミン投与
軽症(軽度の抗コリン症状);
経過観察(悪化する可能性もあるので数日間は医師の監視下におく)
詳細
*吸入の場合
(1)基本的治療
救助者は汚染環境下では個人防護装備を着用のこと
A.新鮮な空気下に速やかに移送
B.呼吸不全を来していないかチェック
C.汚染された衣服は脱がせ、曝露された皮膚、眼は大量の流水で洗う。
(2)生命維持療法および対症療法
A.呼吸管理
咳や呼吸困難のある患者には、必要に応じて気道確保、酸素投与、人工呼吸等を行う。
B.循環管理
血圧低下に対しては、カテコラミンを使用した循環管理
不整脈に対しては、抗不整脈薬等の適宜使用
C.痙攣対策
D.発熱対策:体温コントロール(外部冷却等)
(3)特異的治療法
[解毒剤・拮抗剤]
フィゾスチグミン:日本では医薬品として承認されていない。
作用機序:アセチルコリンエステラーゼを阻害し、アセチルコリン濃度を上昇させ、BZに拮抗する。第三級アミンで血液脳関門を通過するため、中枢症状も改善する。
参考) ピロカルピン、ネオスチグミン等の第四級アミンは血液脳関門を通過しないため中枢症状には効果がない。
*経口の場合
(1)基本的処置
A.催吐
B.胃洗浄
C.活性炭の投与
(2)生命維持療法および対症療法
必要に応じて、上記吸入の場合に準じて治療する。
*経皮の場合
(1)基本的処置
直ちに付着部分を石鹸と水で十分洗う。
手袋は皮膚吸収率が低い(5-10%)ので、必要ないとする文献もある。
(2)生命維持療法および対症療法
洗浄後も刺激感、疼痛が残るなら医師の診察が必要である。
必要に応じて、上記吸入の場合に準じて治療する。
*眼に入った場合
(1)基本的処置
直ちに大量の微温湯で少なくとも15分間以上洗浄する。
(2)生命維持療法および対症療法
洗浄後も刺激感、疼痛、腫脹、流涙、羞明が続く場合は、眼科的診察を受ける。
必要に応じて、上記経口の場合に準じて治療する。
VIII.くしゃみ剤
VIII.1.ジフェニルシアノアルシン(DC)
概要

ジフェニルシアノアルシン(DC)は、ジフェニルクロロアルシン(DA)の催吐作用とシアン化合物としての致死作用を組み合わせることを目的として開発され、1918年ドイツ軍によって初めて使用されたが、致死作用に関しては立証されなかった。ドイツ軍ではDCはDAと同じく青十字(Blue Cross Agent)と呼称されていた。毒性はDAよりも強く、DCもDAと同じく「マスクブレイカー(剤による作用で嘔気を催させ、兵士にマスクを外させる)」としてガス攻撃の当初に使用する。旧日本陸軍では1931年(昭和6年)「あか1号」として制式化されている。当時試験的にDCを経験した研究者は次のようにその効果を表現している。
『あか1号は、くしゃみ剤とされているが、濃度が極めて低い場合にはくしゃみも出るが、我々の体験ではくしゃみ等は出ないで、鼻、喉、胸をかきむしられるように刺激され、居ても立ってもいられない場合が多い。この状態が20分ぐらい続くのだからやりきれない。この苦痛の緩和にコーヒーとコニャックが効果があるとされ、これらにありつけるのがせめてもの慰めであった。』
上記の体験談から、作用効果は非常に速く激烈であるが、一定時間を経過すると回復する状況が理解できる。別称としてClark2がある。
日本では、2003年、茨城県神栖町で、ジフェニルシアノアルシンの分解産物でもあり原料でもあるジフェニルアルシン酸による地下水汚染に起因した有機砒素中毒事例が生じた。

VIII.1.1.物性

無色のガラス状白色の固体、ニンニク臭あるいはビターアーモンド臭がある。微粒子として作用し、濃度が低い場合においても即効的に一時戦闘不能の状態にすることが可能であるが、致死効果は期待できない。
[構造式]

[分子量] 255.1
[比重]

液体の場合:1.3338(35℃)

[沸点]

350℃(300℃で約25%分解)

[融点] 31.5℃~35℃
[蒸気圧]

0.0002mmHg (20℃)

[揮発度] 2.8mg/m3
[相対蒸気密度]8.8(空気=1)
[溶解性]

水に不溶かつ加水分解しにくい。クロロホルムや他の有機溶媒に可溶。

[反応性]

常温で非常に安定。
VIII.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

[中毒量]

ヒト吸入最小刺激濃度:0.25㎎/ m3
ヒト吸入ICt50:30㎎・min/ m3(30秒)、20㎎・min/ m3(5分)

[致死量]

ヒト吸入LCt50:10,000㎎・min/ m3
毒性はジフェニルクロロアルシン(DA)よりも10倍強い。
(参考)
許容濃度
IDLH (Immediately Dangerous to Life and Health):5㎎/ m3、
時間荷重平均(TLV-TWA): 0.01㎎/ m3
中毒作用機序
眼・粘膜刺激作用
体内動態

[吸収]

作用の出現は非常に速やかである。
VIII.1.3.症状

概要

・眼、皮膚、粘膜を刺激し、鼻汁、くしゃみ、咳、頭痛、胸部圧迫感、悪心、吐き気、不快感を引き起こす。
・作用速度は非常に速く、高濃度の場合30秒ほどで耐えられなくなる。通常の使用濃度では、効果は曝露後も約30分継続する。高濃度の場合には、効果が数時間持続する。
・速やかに解毒され、無能力化される量であっても、1時間程度でその効果はなくなる。
検査
呼吸器症状がある患者では、動脈血血液ガス分析、胸部X線検査、呼吸機能検査を行う。
DCは体内でジフェニルアルシン酸に分解されるため、血液、尿のサンプルを曝露後24時間以内に確保できれば、ガスクロマトグラフィー–質量分析法(Gas Chromatography – Mass spectrometry:GC/MS)で定量できる。
VIII.1.4.治療

概要

特異的な解毒剤や拮抗剤はない。対症的に治療する。
詳細
*吸入の場合
(1)基本的処置
・新鮮な空気の下に移動
・呼吸不全をきたしていないかチェック
(2)対症的治療
・呼吸困難、喉頭痙攣がある場合、気管内挿管、酸素投与、人工呼吸が必要となることがある。
・嘔吐:制吐剤の投与
・頭痛:鎮痛剤の投与
・肺水腫対策
*眼に入った場合
(1)基本的処置
直ちに大量の流水で洗眼する。眼はこすらない。
(2)対症的治療
・洗浄後も刺激感が続く場合は、眼科的診察が必要である。
・眼科用ステロイド剤または局所麻酔剤の眼軟膏が必要となることもある。
*皮膚についた場合
(1)基本的処置
・汚染された衣服を脱がせ、石けんと大量の水で十分に洗浄する。
(2)対症的治療
・皮膚の炎症所見が1時間以上続く場合は、湿布を行った後、ステロイド剤含有クリームまたはカラミンローションを局所に塗布する。
参考)湿布は収斂作用のあるブロー氏液(米国薬局方の酢酸アルミニウム液)を 40倍希釈して使用することが勧められている。
・二次感染があれば、抗生物質療法、痒みには抗ヒスタミン剤の経口投与が必要となることがある。
VIII.2.ジフェニルクロロアルシン(DA)
概要

ジフェニルクロロアルシン(DA)は、くしゃみ剤の中で最も早く(1917年)ドイツ軍が使用した。ドイツ軍ではDAはジフェニルシアノアルシン(DC)と同じく青十字(Blue Cross Agent)と呼称されていた。また、DA等のくしゃみ剤は当時のガスマスクに使用されていた活性炭を通過したため、その効果によって、兵にガスマスクを外させ、致死効果を狙ったホスゲン等の致死性化学剤に曝露させて死に至らしめたとされており、「マスクブレイカー」としてガス攻撃の当初に使用されていた。DAの作用速度は非常に早く、1分間の暴露後、2~3分以内に効果が発現する。DA単独では暴徒鎮圧剤として1930年代まで使用されていた。なお、旧日本陸軍では後述するジフェニルシアンアルシン(DC)と併せて「あか剤」と呼称しているが、DAが採用された記録はない。別称としてClark1がある。

VIII.2.1.物性

純粋の場合無色の結晶であり、加熱すると分解する。その際、塩素、フェニルヒ酸等の有毒なヒュームを生じる。常温では安定であるが、水の存在により容易に加水分解する。
[構造式]

[分子量] 264.6
[比重]

液体の場合1.39(50℃)蒸気密度9.1(空気との比較 計算値)

[沸点]

383℃(分解温度:300-350℃)

[融点] 37.3℃、39-44℃
[蒸気圧]

0.0036mmHg (45℃ 計算値)

[揮発度]

2.36×102(50℃ 蒸気圧からの計算値)

[溶解性]

0.2g/100ml(水に溶けにくい)

[反応性]

純粋な場合、安定。水によって容易に加水分解する。
VIII.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

[中毒量]

ヒト吸入ICt50:12mg・min/ m3

[致死量]

ヒト吸入LCt50:15,000mg・min/m3(推定)
(参考)有機ヒ素化合物としてヒ素換算による毒性評価は次の通り。
IDLH:5㎎/ m3、TWA:0.01㎎/ m3
中毒作用機序
眼・粘膜刺激作用
体内動態

[吸収]

作用の出現は非常に速やかである。
VIII.2.3.症状

概要

・眼、皮膚、粘膜を刺激し、鼻汁、くしゃみ、咳、頭痛、胸部圧迫感、悪心、吐き気、不快感を引き起こす。
・作用速度は非常に速く、高濃度の場合30秒程度で耐えられなくなる。通常の使用濃度では、効果は曝露後も約30分継続する。高濃度の場合には効果が数時間持続することがある。
・速やかに解毒され、ガス濃度が無能力化される濃度であっても1時間後には効力を失う。
検査
呼吸器症状がある患者では、動脈血液ガス分析、胸部X線検査、呼吸機能検査を行う。
DAは体内でジフェニルアルシン酸に分解されるため、血液、尿のサンプルを曝露後24時間以内に確保できれば、ガスクロマトグラフィー–質量分析法(Gas Chromatography – Mass spectrometry:GC/MS)で定量できる。
VIII.2.4.治療

概要

特異的な解毒剤や拮抗剤はない。対症的に治療する。

詳細
*吸入の場合
(1)基本的処置
・新鮮な空気の下に移動
・呼吸不全をきたしていないかチェック
(2)対症的治療
・呼吸困難、喉頭痙攣がある場合、気管内挿管、酸素投与、人工呼吸が必要となることがある。
・嘔吐:制吐剤の投与
・頭痛:鎮痛剤の投与
・肺水腫対策
*眼に入った場合
(1)基本的処置
直ちに大量の流水で洗眼する。眼はこすらない。
(2)対症的治療
・洗浄後も刺激感が続く場合は、眼科的診察が必要である。
・眼科用ステロイド剤または局所麻酔剤の眼軟膏が必要となることもある。
*皮膚についた場合
(1)基本的処置
・汚染された衣服を脱がせ、皮膚刺激性作用があれば石鹸と大量の水で十分洗浄する。
(2)対症的治療
・皮膚の炎症所見が1時間以上続く場合は、湿布を行った後、ステロイド剤含有クリームまたはカラミンローションを局所に塗布する。
参考)湿布は収斂作用のあるブロー氏液(米国薬局方の酢酸アルミニウム液)を40倍希釈して使用することが勧められている。
・二次感染があれば、抗生物質療法、痒みには抗ヒスタミン剤の経口投与が必要となることがある。
IX.新興化学剤
IX.1.フェンタニル
概要

米国CDCは、不法薬物としてのフェンタニルだけでなく、テロの手段として意図的に散布等されるフェンタニルについても懸念を表明し、その対応について規定している。同時に、不法薬物としてのフェンタニルが乱用され、その場面にファーストレスポンダーが遭遇したようなケースに対しては、職業上の曝露に対するガイドラインを規定し対応している。このような曝露の可能性のある職業としては、消防、警察、救急隊員、病院関係者等がある。即効性のある合成麻薬であり、意識を失うことなく鎮痛効果を期待できる。中枢神経系に作用し呼吸機能を阻害する。従って、フェンタニルは致死性のこともあり得る。モルヒネの80倍、ヘロインの百倍程度強力であると言われている。人間の機能を失わせてしまう無能力化剤として使用できる可能性がある。なお、無臭である。
フェンタニル自体は、1960年にベルギーのチームがモルヒネ系薬物とは構造の異なる鎮痛薬として合成し、強力で即効性のあるオピオイド系鎮痛薬として世界中で使われるようになった。2002年10月、モスクワ劇場占拠事件においてロシア軍特殊部隊がフェンタニル系の薬物を使用したと言われている。これにより、人質127名が死亡した。(その他のガスが混入されていたかどうかは不明である。英国DSTLの英国人生存者の衣服からの分析では、フェンタニルとカフェンタニルの混合物であったカルフェンタニルとレミフェンタニルのエアロゾルとも、KOLOKOL-1とされる毒ガスであるとも言われている。いずれも超高力価で、特にカルフェンタニルはモルヒネの 10,000 倍以上の効果を有する)この事件で多数の死者が出た一因は、情報提供が適切になされず、駆けつけた救急隊員が必要な解毒薬(ナロキソン)を必要量用意できなかったからだとする意見もある。
近年、米国においてフェンタニルの乱用による死者が激増しており、社会問題となっている。それに伴い、警察や消防といったファーストレスポンダーが現場でフェンタニルに曝露する機会が出てきており、対応が課題となってきた。2016年に死亡した米国の著名な歌手プリンスや、2017年に死亡した米国のロックミュージシャンのトム・ペティも、死因は鎮痛薬のフェンタニル、すなわちオピオイドの過剰摂取によるものであった。なお、CDCの報告書によれば、米国における薬物の過剰摂取による死亡者は年々増えている。1999年時点では10万人あたり6.1人であった死亡率が、2016年には19.8人となったという。これは、2015年の16.3人と比較しても21%増となっている。ちなみに、オピオイドをはじめとする薬物の過剰摂取により、2016年1年間で6万4千人もの米国人が命を落としたと、トランプ米大統領は、2018年1月末に行った一般教書演説で述べている。

IX.1.1.物性

白色の結晶又は結晶性の粉末である。
[構造式]

[分子量]336.47
[融点] 85〜87℃
[溶解性]

メタノール、エタノール(95)に極めて溶けやすく、アセトニトリルに溶けやすく、0.1mol/L塩酸試液にやや溶けにくく、0.01mol/L硫酸試液に溶けにくく、水にほとんど溶けない。
なお、基本的な性状は結晶又は結晶性粉末であるが、テロでの散布手段を考えれば、液体や微細粒子も考えられる。即ち、空気中に微細粒子や液体のスプレー(エアロゾル)の形で、また水や食物への混入、農作物への汚染等が懸念される。
IX.1.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
・人間に対する正確なLD50は知られていない
(参考)ラット3.1mg/kg モンキー 0.03mg/kg
中毒作用機序
・中枢神経抑制に続く昏睡、呼吸抑制。
急性麻薬中毒の症状は、四肢、中脳、脳幹、脊髄に局在するオピオイドレセプターと過剰投与された麻薬との特異的反応である。しかし、麻薬の異常な大量投与の場合、麻薬はオピオイドレセプターを介さないで、発作を引き起こすといわれている。
μレセプター(モルヒネなど):
多幸感、上脊髄鎮痛、呼吸抑制に関与する
δレセプター(N-アリルノルフェノゾシンなど):
不快感、幻覚、妄想、呼吸と血管運動の刺激に関与する
κレセプター(ケトサイクラゾシンなど):
脊髄鎮痛、縮瞳、鎮静、睡眠、呼吸抑制などに関与
・禁断症状(慢性)
体内動態

[吸収]

筋注では30 分以内に吸収される

[分布]

蛋白結合率:80~86%
分布容量:Vd=4L/kg

[代謝]

肝で代謝される
代謝物:デスプロピオニルフェンタニル、ノルフェンタニル

[排泄]

尿中に、85%以上が3~4 日間で排泄される、未変化体は6%。
腎クリアランス=11.2mL/min/kg
半減期:t1/2=2~4 時間(母化合物)
IX.1.3.症状

痛覚脱失は、静脈注射や点滴では数分以内にピークが起こる。100μgの処方で、無感覚の時間は30分~60分続く。皮膚からの吸収は、数時間から数日続くこともある。飲み込んだ場合には、二段階の曝露が起こる。最初の2~3分で初めの曝露があり、2時間以上たって消化器からの吸収がある。呼吸器からの吸入による吸収は速い。
呼吸機能の低下が起こる。フェンタニルの静脈処方により、速やかに胸部筋肉の筋剛直(ウッドチェストシンドローム)が起こり、正常な呼吸が阻害されることが知られている。頭蓋内圧亢進や筋肉の硬化、けいれん等が、フェンタニルの使用の際に起こることが報告されている。

*経口曝露
縮瞳(後に緩和されることもある)、意識の低下、呼吸機能の低下、血中の酸素濃度の低下、血液の酸性化、低血圧、脈拍低下、ショック症状、胃の蠕動運動低下、消化能力低下、肺水腫、意識喪失、そして死に至る。
*吸入曝露
飲み込んだ場合を参照する。
*経皮曝露
同上であるが、皮膚温度が高いほど吸収が大きい傾向にある。
*眼に入った場合
痛みが起こることがある。
IX.1.4.治療

大きくは拮抗薬投与と呼吸管理が重要である。拮抗薬はナロキソン(ナルカン)0.4~2.0mgがオピオイドの過剰摂取において推奨されている。

・ナロキソンは、通常静脈内投与するが、自動注射器による筋注、経鼻投与も行われる。特に、大量の被害者が出るテロのような状況で筋注の繰り返しは効率が悪いので、高用量化や経鼻投与製剤の即効性、持続性を高める薬剤開発が行なわれている。
・効果は5-10分で見られる。効果を維持するため、繰り返し処方してもよい。
・ナロキソンは、wooden chest syndrome(胸郭の固縮)の改善にも効果的である。

注意:日本国内の製剤と米国の高用量製剤では、ナロキソンの含有量が異なる。また剤型も、日本国内はアンプル製剤のみであるが、米国では鼻用吸入キット、オートインジェクター、シリンジ製剤が販売されている。(表 日本国内のナロキソン製剤と米国の高用量製剤の比較 参照)

*経口の場合
速やかに現場から避難させ、気道を確保し、嘔吐を防ぎ医師か救急隊員の指示でナロキソンを処方する。また、活性炭懸濁液(30g/240mL)を、20g-100g投与する。子ども(1-12才)では25-50gとする。その後、病院へ搬送する。
*吸入した場合
現場から離し、呼吸と脈拍を確認して気道を確保し呼吸困難や浅く短い呼吸を認めた時はバッグバルブマスクを用いて、酸素吸入を行う。呼吸停止の際は人工呼吸をする。全身の状況を確認しつつ、対症療法を行う。全身の中毒症状が現れたら、経口摂取の場合に準じて処置する。
*経皮の場合
除染を実施した後、飲み込んだ場合に準じて処置する。

経過観察

・呼吸機能の低下やその他のオピオイドの影響によるものについては、少なくとも12-24時間の経過観察が必要である。心拍機能とともに、低血圧や不整脈の監視も必要になる。
・肺水腫が起こりやすく、起こればそれに応じた対応と治療が必要になる。
IX.2.リシン(WA)
概要

ひまし油 (castor oil)の原料として年間 100万トン以上生産されているトウゴマの実 (Ricinus communis) に含まれる毒素。容易かつ安価に生成でき、毒性が高く、エアロゾルとして安定。生物兵器の一つであるが、毒素であり、ワクチンはない。特異的解毒剤・拮抗剤はないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。化学兵器禁止条約では、サリンVX等とともに表1剤に規定されている。米国CDCの生物テロ対処リストではカテゴリーBに分類。 WHOが2004年に発表した生物兵器に使われる恐れのある感染症である微生物 11 種,毒素 6 種の中の一つである。
世界中で栽培されるひまし油の豆(トウゴマ)から抽出され、比較的簡単に大量の毒素を得ることができる。毒素は蛋白複合体であり、熱や次亜塩素酸塩溶液に弱い。蛋白質なので抗原性があり、人ではアレルギー反応を起こす。トウゴマの種子を圧搾するとヒマシ油がとれ、絞りかすにリシンが残る。リシンは油に溶けないので、ヒマシ油の中には溶け込まない。絞りかすは肥料として使われ、モグラ退治用の農薬として製品化している国もある。第二次世界大戦中米国で生物兵器として開発され、毒性がきわめて高くソマンVXと同等である(ホスゲンの40倍)。臭いがなく症状が徐々に現われるので、警戒されにくく戦場での検出方法が困難などの特徴あり。熱や衝撃によって活性を失うので兵器化には間題がある。
1978年ロンドン市内のバス停で、ブルガリアの亡命作家ゲオルギ・マルコフが何者かにこうもり傘の先端から大腿後面を撃たれた。数時間後から高熱がみられ、26時間後に血性嘔吐を繰り返し、不整脈・腎不全を併発し出血性ショックにて11日目に死亡した。剖検で、大腿後面から直径1.52mmの金属球が摘出され、リシンが検出された。2013年、アメリカで当時の大統領バラク・オバマ宛の手紙に混入されていたリシンを、シークレットサービスが発見。2015年、日本でも別居中の夫の焼酎にトウゴマから抽出したリシンを混ぜて殺害をもくろんだとして、殺人未遂の疑いで妻が逮捕された。2018年6月ドイツで猛毒のリシンを使った生物兵器の製造を計画した容疑でチュニジア人の男(29)が逮捕された。警察幹部は、「ドイツ初となる生物兵器を使った攻撃に向けた非常に具体的な準備が進められていた」と述べている。警察の特殊部隊が6月12日、ケルン(Cologne)にあるシエフ・アラー・H(Sief Allah H)容疑者の自宅アパートを急襲。見つかった「毒物」は後にリシンと判明した。容疑者は、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が発したリシン爆弾製造に関する指示に従ったとみられている。

IX.2.1.物性

精製されたリシンは、常温で固体、無味無臭である。
[分子量] 約65,000(糖蛋白質)
[溶解性]水にのみ溶ける。

IX.2.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性
その毒性は体内への曝露経路により異なる。吸入曝露は経口摂取よりは効果が大きい。
吸入曝露でのLD50は3-5 µg/kgであるのに対して、経口摂取では20 mg/kgである。
経皮からの毒性値は知られていない。
中毒作用機序
毒素はエアロゾル吸入か経口摂取により、蛋白の同化を妨げ直接細胞に作用し組織壊死を起こす。
体内動態

[吸収]

症状が現われるまでに、数時間の潜伏期がある。
IX.2.3.症状
エアロゾルの吸入では、8時間の潜伏期後に息切れ、胸部圧迫感、咳、発熱、悪寒、筋肉痛を起こす。36~72時間で、肺水腫による呼吸不全で死亡する。
リシンを経口摂取された患者は、嘔吐、下痢、腹痛、ショックを起こす。リシン毒素の合併症は、多臓器不全と播種性血管内凝固(DIC)である。
IX.2.4.治療
治療は対症療法のみで、抗毒素はなくワクチンや予防法も現在まで開発されていない。
経口摂取後4時間以内なら、催吐が有効と考えられる。嘔吐・下痢で脱水が著しいので、水と電解質の補給が重要である。尿中排泄はほとんどなく、強制利尿は効果がない。遊離へモグロビンによる腎障害防止のため尿のアルカリ化が有効と考えられる。呼吸不全は酸素投与をし、必要があれば気管内挿管・人工呼吸で治療する。低血圧やショックでは、輸液を含めた全身管理が必要である。

汚染管理

リシンに傷害されても、皮膚が除染されていれば、隔離や二次感染への注意は不要である。次亜塩素酸塩は、リシンを変性させ無効にする。以前は、次亜塩素酸塩である次亜塩素酸ナトリウムはリシンに限らず広く化学剤、生物剤の除染剤として推奨されてきたが(人体皮膚に使う場合は、0.01-0.05%溶液、器物に使う場合には5%溶液)、手荒れを起こすことも多く、海外では濃度調整の人為的ミスなどの事故もあり、人体には推奨されなくなってきた。よって人体の皮膚除染は大量の水と石鹸を使用することが推奨される。
IX.3.ノビチョク
概要

ロシア語で「新参者」を意味し、1970年代から80年代にかけてソビエト連邦が秘密裏に作った神経剤グループを指す。そのうちのひとつ「A230」はVXガスの5-8倍の殺傷能力を持ち、数分で人を死に至らしめる。液体あるいは固体であるとみられる。いくつかは、毒性の低い2種類の化学物質の状態で保存され、混ぜ合わせて殺傷性を高める「バイナリー兵器」だと考えられている。そのうち1種は化学兵器としてロシア軍での使用が許可されているという。こうした情報はロシアからの亡命化学者ミルザヤノフによって明らかにされた。数百の派生化合物があるとされ、毒性では、ノビチョック5、及び7が最強とされるものの、それがどの構造式のものかは明らかではない。なお、ミルザヤノフの著書にある構造式は、一部が意図的に改ざんされているという話もあったが、実際には正確であるという見方もある。もともと、NATOの標準的な検知器にかからず、個人防護装備を透過し、かつ使用者は安全に取り扱えることを目指していたものと言われる。
1992年、ロシアが化学兵器禁止条約;CWCに署名する直前という絶妙のタイミングで、モスクワの週刊誌に2名の化学者(フェドロフとミルザヤノフ)の手記が掲載された。これで、旧ソ連の新化学剤開発が70年代から90年代にかけて営々と続けられていたことが明るみに出た。このころ、西側の財政支援による旧ソ連の化学兵器生産施設の一般産業用への転換が進められていた。米国国防総省は早い段階からこの旧ソ連・ロシアのノビチョックに関連する動きを掴んでいたものと思われる。その同盟国である英国も同様である。化学兵器禁止条約の付表には、当該化合物そのものはない。従って、申告、査察、検証の対象とはならないという解釈もできる。一方で、CWCはその総則、締約国の一般的義務の中で、このような物質の製造、使用等を禁じており、その観点からは規制されているとの見方もある。英国首相テリーザ・メイは2018年3月、イングランドにおけるロシアの元スパイ毒殺未遂事件に使用されたと発表。ロンドン警視庁は同年7月4日、英南部エイムズベリーで6月30日に意識不明で発見された男女は、神経剤「ノビチョク」を浴びていたと発表。後に女性は死亡した。

IX.3.1.物性

常温で液体又は固体。
VX以上に気化しにくいと考えられる。
[構造式]

一例として示されているものには以下がある。

[分子量] 不明
[比重][融点][沸点][融点][蒸気圧][蒸気密度][揮発度][引火点]
[溶解性]いずれも不明

[環境汚染の持続時間]

湿気に弱く不安定と言われている。従って、環境汚染の持続時間は長くないと見られるが、エイムズベリーのカップルの事件からみて香水瓶の中で保管されているような状態では数か月は持つとみられる。
IX.3.2.毒性、中毒作用機序、体内動態
毒性

[中毒量] 不明
[致死量]

ノビチョクと他の化学剤との毒性比較
名称 半数致死量(mg) 備考
タブン(GA) 1,500
サリン(GB) 1,700
ソマン(GD) 350
硫黄マスタード(HD) 1,400
VX    5 10mgという文献もあり
ノビチョク 1以下? 開発者の著書から推定

※数値は各文献により異なるのでここでは米軍FM3-11を主体に記述する。
※※液体に皮膚曝露した場合(70kg男性)

[刺激性] 不明
[発癌性] 不明

中毒作用機序
ノビチョクの作用機構もまた、全般的には、神経剤の作用機構と同じと考えられる。すなわち、組織のアセチルコリンエステラーゼ(以下、AChE)を抑制し、アセチルコリン(以下、ACh)が、筋、 骨格筋、 中枢神経、 腺に作用する。AChの作用は、筋、 腺、神経をシナプスすなわち接合部を介して刺激させ作動することである。終末器官(例:骨格筋)を刺激するために、神経終末はAChをシナプスに放出し筋肉を収縮させる。筋肉はAChが存在するかぎり、収縮を持続する。アセチルコリンエステラーゼ(以下AChE)が、AChを分解する。この作用が、筋肉収縮を制御している。神経剤が組織のAChEの作用を阻害すると、AChEはコリン作動性受容体部位(筋肉・腺・神経組織など)でのAChを加水分解することができなくなる。AChがシナプス中に急速に蓄積・過剰状態となり、持続的に刺激状態となる。筋肉では筋線維収縮をコントロールできなくなり、筋線維束性攣縮として現れる。その後短時間で、筋肉は疲弊し収縮を止め、呼吸筋麻痺状態になり死亡する。筋肉のほかに、分泌腺が刺激され、また眼にも作用し、発汗過多、鼻汁過多、流涙・縮瞳など種々の症状が発現する。コリン作動性受容体部位を有する臓器としては、平滑筋、 骨格筋、 中枢神経系と、多くの外分泌腺である。ムスカリンはコリン作動性部位のいくつかを刺激するが、これらはムスカリン作動部位として知られている。これらの部位を有する臓器としては平滑筋、交感神経節がある。ニコチンは他のコリン作動性部位を刺激し、ニコチン作動部位として知られているが骨格筋や分泌腺に存在する。中枢神経系は両方の型の受容体を有しているが、中枢神経での薬理学的作用は複雑で全ては解明されていない。アトロピンは、ニコチン作動部位よりもムスカリン作動部位において、過剰なAChを阻害する。
IX.3.3.症状
液剤の神経剤とほぼ類似するものと考えられる。このことは、実際に英国のカップルが香水瓶に入ったノビチョクに触れた際の状況にもいえる。即ち、女性が突然にゾンビのようになったというものである。生き残った男性の話によると、「開封していない香水の瓶を拾い、数日後、それを彼女にプレゼントした。彼女はその香水のブランドを知っていて、すぐに手首に吹きかけ、擦りつけた。15分後、彼女の様子が急速に悪化し、病院に運ばれた。自分も香水に触れたが、匂いが全くしなかったので不審に思い、水道で洗い流した。程なくして、自分も具合が悪くなり、意識を失った。8日後、彼女は亡くなった。」(BBCニュースより)と言う。
一般的に神経剤の液剤の少-中等量曝露では、局所の発汗、嘔気、嘔吐、虚脱感がみられるが、大量曝露では突然の意識消失、痙攣、無呼吸、弛緩性麻痺が認められる。皮膚への大量の液剤曝露時には、その効果は数分以内に引き起こされる。通常は1~30分の無症候性期間があるが、それ以降に突然次々と意識消失、痙攣、 無呼吸、筋弛緩などを発症する。ノビチョクの場合も、同様であろうと推察される。
検査所見は、一般的な神経剤のものと同様であると考えられる。すなわち、神経剤により血清コリンエステラーゼ(以下、ChE)活性は阻害される。このChE値低下は診断に有用である。神経剤曝露時の急性期には、血清ChE値よりも、赤血球ChE値の方が感受性が高い。しかし、わずかな曝露では、赤血球ChE値は正常のことも低下することもあり、局所症状の重症度とChE値の相関は認められない。松本サリン事件でも、急性期の眼、 鼻症状を訴えた患者の多くは、血清ChE値は正常であり、初期局所症状とChE値は必ずしも相関しなかったという。一方、東京地下鉄サリン事件では血清ChE値と症状におおまかな相関がみられていたともいう。一般に重症者では赤血球ChE活性は70~80%またはそれ以上阻害されている。また、赤血球ChE活性が50%までの低下であれば全身症状は出現しないと考えられている。
IX.3.4.治療
一般的に、神経剤曝露された患者でも、早期の人工呼吸や拮抗剤投与が施されたなら生存の可能性は大きい。神経剤中毒の治療には除染、呼吸管理、拮抗剤投与、維持療法などがあり、患者状況により治療法が選択される。急性期に最も重要なのは、気道確保/呼吸管理(大量曝露時:30分~3時間)、分泌物の頻回な吸引と循環管理である。気道収縮や分泌物のため気道抵抗は高く、当初換気は困難である。アトロピンの作用で、多量の気道内分泌物の粘調度が高まるため、換気運動を阻害する。そのため、頻回な気道内容の吸引が必要となる。今回のスクリパリ親子のケースを見ても同様である。
「今回の治療のポイントは、早急な集中治療室への搬送、強力な鎮静措置による脳損傷対策、ポートン・ダウン研究所の専門家の助言だった。治療を続けるなか、オピオイドの過剰摂取は否定された。有機リン中毒、あるいは神経剤による中毒でよく見られる症状だった。病院の集中治療室の医師は、「神経剤による症状だと気が付いたとき、2人は助からないと思った」と語っている。強力な鎮静剤で脳損傷予防もはかられた。退院後にマスコミによる会見に登場したユリアさんの喉の気管切開痕からも、それがうかがわれた。スクリパリ親子の治療チームはAChEをいかにして活性化させるかに関心があったが、自然回復を待つしかなかった。赤血球AChE活性は、赤血球の新陳代謝率に従って1日およそ1%の割合で回復する。 組織中および血清AChE活性は、新しいAChEの合成によって回復する。酵素はいくつかの化学物質によって再活性化される。この物質がPAMなどのオキシム剤である。しかし、時間が経過し神経剤-酵素複合体がエージング(老化、不可逆的に結合)していれば、オキシムは無効となる。

経過観察

一般的に、神経剤の大量曝露による重篤症状からの回復期に、健忘、集中力の低下、不眠等の症状が4~6週間も続くことがある。今回の元ロシアスパイ親子のケースも同様であったと推察される。また、ロシアの科学者によると、ノビチョクは不可逆な神経損傷を引き起こし、犠牲者に永久的な障害をもたらす可能性があると言っている。1987年、モスクワの研究所で開発に携わっていた科学者の一人がノビチョクに偶然曝露する事故があった。彼は意識回復まで10日かかり、歩行能力を失い、3ヶ月後レニングラードの診療所で治療を受けた。腕の筋力低下、肝硬変に至る肝炎、癲癇、高度のうつ症状、集中力低下が起きた。再び職場復帰することもできず、5年後に死亡したという。

汚染管理

スクリパリ親子の事件では、現場のソールズベリーにおいて危険とされた地域の除染を行い、およそ500人の一般人に所有物の洗浄をするように勧告がなされた。また、スクリパリ氏親子は、屋外のベンチで意識不明の状態で発見されたが、運び込まれたソールズベリー地域病院の職員たちにとって原因不明であり、さらに、警官のニック・ベイリー氏が同様の症状で運び込まれたときに異変に気づいた。病院職員の二次被害も懸念された。マスクや防護服のような防護措置は全く取られていなかった。本来であれば、液状神経剤と同様の汚染管理が必要であった。

ノビチョク(第四世代神経剤)に関する補足資料として、以下のリンクを参照

第4世代神経剤(fourth generation agent: FGA) の医学的管理指針


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