No.934 タリウム中毒事例

[ 詳細報告 ]
分野名:化学物質による食品汚染
登録日:2016/03/11
最終更新日:2016/05/27
衛研名:沖縄県衛生環境研究所
発生地域:沖縄県宜野湾市
事例発生日:1976年
事例終息日:
発生規模:
患者被害報告数:患者数:6名
死亡者数:1名
原因物質:硫酸タリウム
キーワード:タリウム、脱毛、脳炎症状、殺鼠剤、ローダミンB法

背景:
1861年にイギリスのSir William Croockesによって発見されたタリウム(Tl)は、その化学的特性により種々の用途に使われてきた。
当初は淋病、梅毒、結核の治療薬として用いられ、又、少量内服すると毛髪のKeratin生成が阻害され2~3週間で脱毛を起こす性質によって、脱毛剤としても使われてきた。さらに頭部白癬菌症の治療薬として繁用された歴史も長いと云われている。
しかしながら、薬用量と中毒量の隔たりが小さくしばしば中毒を生じたことから、次第に治療薬としては用いられなくなり、現在では工業、農業の分野でのみ使われている。
特に殺鼠剤としての活用は、1920年にドイツで初めて用いられて以来世界中に及んでおり、無味無臭という特質は更に殺鼠効果を高め、使用者の評価も高い。
一方、その無味無臭という特質が逆に禍して誤飲誤食による中毒事故が米国や欧州で少なからず発生しており、我が国でも数件の中毒例が報告されている。

概要:
沖縄県立中部病院に脳炎症状を主徴とする患児C(男、4歳)が入院。12日後、顕著な脱毛が始まる。1月後、同様症状の患児A(女、3歳)が入院。両患児とも同一地域で、隣同士であり、患児Aの兄B(男、5歳)も同様症状で他病院に入院中1月前(患児C入院と同時期)に死亡していることが判り、主治医は共通原因による集団発生の疑い濃厚として所管部課に通報した。
調査の結果、患児は同一区域内の4家族6名で、男児3名(重症、内1名死亡)、女児3名(軽症)であり、年齢は3歳2名、4歳2名、5歳2名であった。
患児6名の日常の行動範囲は直径約100mの範囲内にあり、国道、市道を越えて行動圏を広げることは殆どなかった。この範囲内において感染源に曝露されたものとして重点的に調査が進められた。
一方、患児を診断した主治医はその症状からタリウム中毒もしくは中枢神経系感染症を疑っており、疫学調査も中毒と感染の二方向について行われた。
結果として、患児の尿からタリウムが検出され、患児の自宅近くの鶏舎周辺で殺鼠目的で使用された硫酸タリウムをしみ込ませた食パンを誤食したものと推定された。

原因究明:
6患児の尿から1~4ppmのタリウムが検出され、脱毛、脳炎症状等の臨床症状から本件はタリウムの誤食による中毒と診断された。
また、現場での疫学調査、聞き取り調査による硫酸タリウムの流通経路から本物質と6患児の接点が推定され、本事件の全容が明らかになった。

診断:

地研の対応:
第二グループの患児発生により、患児の血清、髄液、尿が沖縄県公害衛生研究所に届けられ、Enterovirus等の検出が試みられたが、検出されなかった。患児の症状が典型的なタリウム中毒の症状であることを重視して薬物中毒の調査に力点を置き、virus的な検索は中途で打ち切られた。
患児の尿からタリウムの検出については、分析担当者も初めての事例で、当初定性方法での検出を試みたが、感度が充分でなくなかなかうまくいかなかった。いくつか手に入れた文献の中から孫引き等によりやっとローダミンB法(吸光光度法)による定量方法に辿り着き、幸いにもオリジナル論文の掲載された雑誌が琉球大学図書館で入手出来たので、早速、患児の尿100mlから0.01ppmの検出感度で定量することが可能となった。
沖縄県公害衛生研究所は単に持ち込まれた調査検体の分析のみでなく、対策本部の疫学調査を一元的に掌握し、衛研職員、所轄保健所職員を動員し、各方面事情聴取、現場調査の結果、殺鼠剤硫酸タリウムの誤食経路を明らかにした。

行政の対応:
第二グループの患児発生後、マスコミが大きく報道したが、原因物質の特定ができず、あるいは広範囲に及ぶ公害事件の発生かと危ぶまれ、沖縄県環境保健部内に「不明疾患対策本部」が設置された。対策本部長には公害衛生研究所長が任命された。
その後、系統的な疫学調査が実施され、原因究明調査が大きく前進した。

地研間の連携:
分析担当者の個人的人脈による情報しか得られず、また本件が全国にも稀なケースであり、充分な情報は得られなかった。

国及び国研等との連携:
組織的にも分析担当者個人的にも連携がなかった。

事例の教訓・反省:
1)毒劇物の表示
本件で原因物質と断定された殺鼠剤は沖縄県内で製剤化された液体硫酸タリウム剤であり、200ml入りの小瓶に3%の含有量が表示されており、使用方法の説明も一応法規の定める通りであるが、ラベルには「強力安全殺鼠剤」と大書してあり、一般消費者の油断を招きかねない表現となっていた。油断すると人の命を奪うほどの薬品であることを思えば、「安全」の字は避けるべきである。
2)毒劇物の取り扱い及び管理
毒劇物が販売される場合に購入者が営業者であれば、「取扱い責任者」による管理を必要とするが、市町村や農協等及び一般家庭に授受されるときは、法的規制を離れて、毒劇物の取扱いは各人の良識と科学的素養に任される。本件の調査では、販売台帳の記載漏れ、ずさんな管理が指摘され、毒劇物の流通の各段階での取扱い及び管理の重要性が認識された。
3)生活環境の整備
本件の発生した地区は、雑草の生い茂る丘陵地帯にスプロールしてできた住宅地で、低所得者が多く、下水道が普及していないため排水が悪く、鼠族昆虫の発生が多い場所である。塵芥の処理も悪く、益々ネズミ等の発生を多くしているが、そのような生活環境の改善は疎にして、安易に強力な化学薬品を使用してネズミを除こうとする傾向に問題があった。
4)衛生研究所と保健所の対応
事例発生の第一報が県立病院主治医から主管部課に達して後の原因究明と対策のための活動は迅速とは云えず、所管保健所が環境調査、衛生研究所が原因物質の究明を担当する
とが漫然と決められた。当初本庁、保健所、衛生研究所と3者がそれぞれの調査結果、分析結果待ちの状態が続いた。
対策本部が設置されたあとは、疫学調査の全機能を一元的に掌握して割合短期間に解明し得たが、この事例は「不明疾患発生時」に保健所と衛生研究所の機能を効率よく発揮するための「一元的な強力な調査組織」の重要性に教訓的な示唆を与えた。

現在の状況:
その後、本件のような事例は発生していない。

今後の課題:
本件は原因物質がタリウムという稀有な物質による中毒のため、初動調査から困難を極めた。今後も同様な不明疾患事件が発生した際に、どのような初動調査を行い、臨床症状等から原因物質を推定し、検出方法や同定方法等の迅速な入手といった方法論が未だ確立されているとは言い難く、一地研のみでは今後も困難が予想される。「危機管理マニュアル」の作成はもとより、各種情報の整備、入手システムの整備が望まれる。

問題点:

関連資料:
1) 吉田朝啓、他;タリウム中毒事例の疫学調査、沖縄県公害衛生研究所報、第10号、25ー33(1976)
2) 寺田一郎、他;二、三の農薬中毒事故の経験について、日本医事新報、No2160号、(1965)
3) 鈴木好文、他;殺鼠剤によるタリウム中毒、小児科臨床、第18巻、第3号(1965)
4) 小口喜三夫、他;Thallotoxicosisの2症例、臨床神経、14:42-47(1974)5)
5) Grosselin, R. E. etal.; Clinical Toxicology of Commercial Products, Acute Poisoning, The Williams & Wilkins Co., Baltimore( 1976).
6) James C. Munch.; Human Thallotoxicosis, J. A. M. A. Vol. 102, No. 23, June(1934).
7) Philip H. Chamberlain, etal; Thallium Poisoning, Pediatrics, December, 1170-1182(1958).
8) William J. Bank, etal; Thallium Poisoning, Arch Neuro, Vol. 26, May(1972)
9) Dwayne Reed, etal; Thallotoxicosis, J. A. M. A., No. 16, 516-522,Feb(1963)
10) Hiroshi Onishi; Bull. Chem. Soc. Jap., 30, 567(1957).